
先日の礼拝で6千人のユダヤ人を救った杉原千畝のことが語られました。
ネットで調べたことを紹介します。
1939年、杉原氏はリトアニアの日本領事館代理として働いていました。
1940年7月27日、大勢の人が領事館の周りを埋め尽くしていました。事情を聴くと、それはナチスの迫害の手をのがれてリトアニアに着いた大勢のユダヤ人たちでした。
ユダヤ人達は、これから日本経由でアメリカやイスラエルに逃げようとしており、通過ビザを求めていました。
ナチスから逃れる道は、シベリア-日本経由の道しか残されていませんでした。
人々は日本を通過するビザが欲しいと訴えていました。
これほど多くの人々にビザを出すことは、領事の権限ではできませんでした。外務省に暗号電報で許可を求めましたが、回答は「否」です。日独伊三国同盟を目指す方針の下で、ドイツに敵対するような行為は認められなかったからです。
でも、もしビザを出さなければ、外のユダヤ人達は皆殺されてしまいます。杉原領事はあきらめずに二度、三度と電報を打ちましたが答えは同じでした。
ビザ交付の決断に迷い、眠れぬ夜を過ごした杉原はついに意を決して、夫人に言いました。
「幸子、私は外務省に背いて、領事の権限でビザを出すことにする。いいだろう?」
「あとで、私たちはどうなるか分かりませんけれど、そうしてください。」
幸子夫人も同じ考えでした。
杉原氏は、外務省を辞めさせられることも覚悟して決断しました。
以下は幸子夫人の書かれた文章です。
「夫が表に出て、鉄柵越しに「ビザを発行する」と告げた時、人々の表情には電気が走ったようでした。一瞬の沈黙と、その後のどよめき。抱き合ってキスし合う姿、天に向かって手を広げ感謝の祈りを捧げる人、子供を抱き上げて喜びを押さえきれない母親。窓から見ている私にも、その喜びが伝わってきました。」
それから約1か月間、退去期限ぎりぎりまで、杉原氏は朝から晩まで1日300枚を目標にビザを書き続けました。すべてを手書きで一人一人の名前を間違えないように書かなくてはなりません。
一日が終わると、ベッドに倒れ込み、夫人が腕をマッサージしていると数分で眠り込みました。
ソ連から退去命令が何度も来て、杉原氏はついに8月28日に領事館を閉鎖して、ホテルに移りました。ホテルにもユダヤ人がやってきました。杉原氏はありあわせの紙でビザを書き続けたそうです。
9月1日の早朝、退去期限が過ぎて、ベルリン行きの国際列車に乗り込むと、ここにもビザを求めて何人かの人が来ていました。窓から身を乗り出して杉原氏はビザを書き続けました。
走り出づる列車の窓に縋りくる手に渡さるる命のビザは
杉原氏のおかげで6千人ものユダヤ人の命が救われました。
杉原氏は、ビザを発行してはいけないという日本政府と、ユダヤ人を助けたいという思いとの板挟みになりました。しかし、神を信じていた杉原氏は、「私を頼ってくる人々を見捨てるわけにはいかない。でなければ私は神に背く」と言ってビザを発行する決断しました。
1947年に日本に帰国した杉原氏は、外務省を依願退職させられることになりましたが、1985年には、イスラエル政府から「諸国民の中の正義の人賞(ヤド・バシェム賞)」を受賞しました。
6千人のユダヤ人の子孫は、今や25万人にもなったそうです。。
杉原氏がもし自分の立場を守りたいと思ったら、日本政府の命令に従って発行しないという決断をしたでしょう。でも、彼はたとえ命を失っても神のみこころにかなったことをしたいと思い、発行する決断をしたのです。
ご夫妻の信仰に心打たれました。
上の写真は日曜日に礼拝後、TEENSの子どもたちと行った茨城県北部の阿字ヶ浦海岸
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ネットで調べたことを紹介します。
1939年、杉原氏はリトアニアの日本領事館代理として働いていました。
1940年7月27日、大勢の人が領事館の周りを埋め尽くしていました。事情を聴くと、それはナチスの迫害の手をのがれてリトアニアに着いた大勢のユダヤ人たちでした。
ユダヤ人達は、これから日本経由でアメリカやイスラエルに逃げようとしており、通過ビザを求めていました。
ナチスから逃れる道は、シベリア-日本経由の道しか残されていませんでした。
人々は日本を通過するビザが欲しいと訴えていました。
これほど多くの人々にビザを出すことは、領事の権限ではできませんでした。外務省に暗号電報で許可を求めましたが、回答は「否」です。日独伊三国同盟を目指す方針の下で、ドイツに敵対するような行為は認められなかったからです。
でも、もしビザを出さなければ、外のユダヤ人達は皆殺されてしまいます。杉原領事はあきらめずに二度、三度と電報を打ちましたが答えは同じでした。
ビザ交付の決断に迷い、眠れぬ夜を過ごした杉原はついに意を決して、夫人に言いました。
「幸子、私は外務省に背いて、領事の権限でビザを出すことにする。いいだろう?」
「あとで、私たちはどうなるか分かりませんけれど、そうしてください。」
幸子夫人も同じ考えでした。
杉原氏は、外務省を辞めさせられることも覚悟して決断しました。
以下は幸子夫人の書かれた文章です。
「夫が表に出て、鉄柵越しに「ビザを発行する」と告げた時、人々の表情には電気が走ったようでした。一瞬の沈黙と、その後のどよめき。抱き合ってキスし合う姿、天に向かって手を広げ感謝の祈りを捧げる人、子供を抱き上げて喜びを押さえきれない母親。窓から見ている私にも、その喜びが伝わってきました。」
それから約1か月間、退去期限ぎりぎりまで、杉原氏は朝から晩まで1日300枚を目標にビザを書き続けました。すべてを手書きで一人一人の名前を間違えないように書かなくてはなりません。
一日が終わると、ベッドに倒れ込み、夫人が腕をマッサージしていると数分で眠り込みました。
ソ連から退去命令が何度も来て、杉原氏はついに8月28日に領事館を閉鎖して、ホテルに移りました。ホテルにもユダヤ人がやってきました。杉原氏はありあわせの紙でビザを書き続けたそうです。
9月1日の早朝、退去期限が過ぎて、ベルリン行きの国際列車に乗り込むと、ここにもビザを求めて何人かの人が来ていました。窓から身を乗り出して杉原氏はビザを書き続けました。
走り出づる列車の窓に縋りくる手に渡さるる命のビザは
杉原氏のおかげで6千人ものユダヤ人の命が救われました。
杉原氏は、ビザを発行してはいけないという日本政府と、ユダヤ人を助けたいという思いとの板挟みになりました。しかし、神を信じていた杉原氏は、「私を頼ってくる人々を見捨てるわけにはいかない。でなければ私は神に背く」と言ってビザを発行する決断しました。
1947年に日本に帰国した杉原氏は、外務省を依願退職させられることになりましたが、1985年には、イスラエル政府から「諸国民の中の正義の人賞(ヤド・バシェム賞)」を受賞しました。
6千人のユダヤ人の子孫は、今や25万人にもなったそうです。。
杉原氏がもし自分の立場を守りたいと思ったら、日本政府の命令に従って発行しないという決断をしたでしょう。でも、彼はたとえ命を失っても神のみこころにかなったことをしたいと思い、発行する決断をしたのです。
ご夫妻の信仰に心打たれました。
上の写真は日曜日に礼拝後、TEENSの子どもたちと行った茨城県北部の阿字ヶ浦海岸

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本当に感動でした。
晩年は、かなり悲惨だったようですが
御国に凱旋して、今は主と共に憩うているでしょう。
信仰と行動が一致している人は素晴らしいですね。
神の栄光が顕されるのですから。
わたしは、テレビドラマで観た記憶があります。
杉原氏がクリスチャンとは知りませんでした。
今回調べていて信仰によって決断されたことがよくわかりました。
杉原幸子さんは、「六千人の命のビザ」という本を出版しておられます。
読んでみたいと思っています。