前回の記事に9月1日前後は自殺者が多いと書きましたが、今年も高校生、中学生が自らの命を絶ったニュースが流れてきました。
3日のTEENS礼拝では「いのちはどうして大切なの?」と問いかけがありました。
その後、旧約聖書のヨブ記が紹介されました。
ヨブは神様を信じる正しい人でした。子どもや孫たちに恵まれ、たくさんの財産を持ち、裕福で幸せな生活を送っていました。
ところが、ヨブの息子、娘たちが集まっていると、突然シェバ人が襲ってきて若い人たちが剣で殺されてしまいました。その報告がなされているうちにに天から火が下り、羊と若い者たちが焼き尽くされたという知らせが届きました。その間にカルデヤ人がらくだを奪い、若い者たちを打ち殺したという知らせがありました。その間に大風が吹いてきて家が倒れ、息子娘たちが全員死んでしまうという知らせが届きます。
次から次へと信じられないような災難に見舞われますが、ヨブはそれを聞いて、「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。(ヨブ記1:21)」と言って、神様を恨まず、かえって主をほめたたえています。
その後、ヨブ自身にも禍が降りかかります。ヨブは病気(重い皮膚病)になって、土器のかけらで身をかきながら灰の中に座っていました。
そのとき、ヨブは「自分の生まれた日をのろった」のです。
すべてを失ったのに神を恨むことなかった信仰深いヨブがなぜ? と思いますが、神を呪って当然のような状態です。
生まれなければ、こんなひどい目にあうこともなかったのに……と思ったことでしょう。
ヨブの災難を聞いて慰めに来た三人の友人は、あまりにもひどいヨブの様子をみて、しばらく誰も言葉を発しませんでした。
こんなときは、どんな慰めも励ましもかえって痛みになります。
かゆい、激痛がある、呼吸が苦しいときなどは一刻も早くこの苦しみを取り去ってほしいとしか祈れません。
苦しみは、肉体的苦痛だけではありません。なぜ、自分だけがこのような目にあうのかと精神的苦しみが加わります。
正直に生きていれば、幸せになり、悪いことをしたり欲深い人は不幸せになるという考えを持っている人は現代にもいますが、紀元前1500年頃にもそのように考えていた人たちがいたようです。
慰めるつもりで見舞いに来た友人たちが、ヨブに罪があるからそうなったのだと言い始め、ヨブはそれに答えていくうちに意固地になっていきます。
ここまでは、わたしのヨブ記理解です。
以下はメッセージの一部です。
人は自分に与えられているものによって支えられています。それをすべて失ったとき、生きる力が与えられるのでしょうか?
生まれた日をのろったヨブを他人事のようには思えません。いろいろなことを投げやりになったり、自分の環境をのろったり、自分の容姿がいやだ、もっと能力があったらよかったのにとのろうことがあります。
いのちに対していい加減な気持ちを持っているからのろうのです。
生まれた日をのろうということは、自分なんかいなくてもいい、存在しなくてもいいと思ってしまうことです。
「いのちはあなただけのものです」と言った人がいますが、それは違います。いのちはあなたのものではなく、いのちを与えてくださった神様のものなのです。
いのちを与えることができるのは神様だけです。与えられたいのちを生かしてくださるのは神様です。人間の価値を決定するのは神様です。
簡単に「死にたい」なんて言えないですね。
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3日のTEENS礼拝では「いのちはどうして大切なの?」と問いかけがありました。
その後、旧約聖書のヨブ記が紹介されました。
ヨブは神様を信じる正しい人でした。子どもや孫たちに恵まれ、たくさんの財産を持ち、裕福で幸せな生活を送っていました。
ところが、ヨブの息子、娘たちが集まっていると、突然シェバ人が襲ってきて若い人たちが剣で殺されてしまいました。その報告がなされているうちにに天から火が下り、羊と若い者たちが焼き尽くされたという知らせが届きました。その間にカルデヤ人がらくだを奪い、若い者たちを打ち殺したという知らせがありました。その間に大風が吹いてきて家が倒れ、息子娘たちが全員死んでしまうという知らせが届きます。
次から次へと信じられないような災難に見舞われますが、ヨブはそれを聞いて、「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。(ヨブ記1:21)」と言って、神様を恨まず、かえって主をほめたたえています。
その後、ヨブ自身にも禍が降りかかります。ヨブは病気(重い皮膚病)になって、土器のかけらで身をかきながら灰の中に座っていました。
そのとき、ヨブは「自分の生まれた日をのろった」のです。
すべてを失ったのに神を恨むことなかった信仰深いヨブがなぜ? と思いますが、神を呪って当然のような状態です。
生まれなければ、こんなひどい目にあうこともなかったのに……と思ったことでしょう。
ヨブの災難を聞いて慰めに来た三人の友人は、あまりにもひどいヨブの様子をみて、しばらく誰も言葉を発しませんでした。
こんなときは、どんな慰めも励ましもかえって痛みになります。
かゆい、激痛がある、呼吸が苦しいときなどは一刻も早くこの苦しみを取り去ってほしいとしか祈れません。
苦しみは、肉体的苦痛だけではありません。なぜ、自分だけがこのような目にあうのかと精神的苦しみが加わります。
正直に生きていれば、幸せになり、悪いことをしたり欲深い人は不幸せになるという考えを持っている人は現代にもいますが、紀元前1500年頃にもそのように考えていた人たちがいたようです。
慰めるつもりで見舞いに来た友人たちが、ヨブに罪があるからそうなったのだと言い始め、ヨブはそれに答えていくうちに意固地になっていきます。
ここまでは、わたしのヨブ記理解です。
以下はメッセージの一部です。
人は自分に与えられているものによって支えられています。それをすべて失ったとき、生きる力が与えられるのでしょうか?
生まれた日をのろったヨブを他人事のようには思えません。いろいろなことを投げやりになったり、自分の環境をのろったり、自分の容姿がいやだ、もっと能力があったらよかったのにとのろうことがあります。
いのちに対していい加減な気持ちを持っているからのろうのです。
生まれた日をのろうということは、自分なんかいなくてもいい、存在しなくてもいいと思ってしまうことです。
「いのちはあなただけのものです」と言った人がいますが、それは違います。いのちはあなたのものではなく、いのちを与えてくださった神様のものなのです。
いのちを与えることができるのは神様だけです。与えられたいのちを生かしてくださるのは神様です。人間の価値を決定するのは神様です。
簡単に「死にたい」なんて言えないですね。
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