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生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

祝福された親子礼拝

2011-05-16 16:49:14 | CS(子供伝道)

昨日は年に一度の親子礼拝でした。いつもの教会学校は教育館で1.2歳クラス、幼稚科、小学科低学年、高学年に分かれてそれぞれ礼拝を捧げていますが、親子礼拝では1.2歳クラスから小学6年生までの子どもと親が共に礼拝堂で礼拝を捧げます。
礼拝堂は満席だったので、親子合わせて300人以上いたと思います。

「主われを愛す」「つながれイエスさま」
礼拝堂いっぱいに賛美の声が響きました。
わたしは受付だったので親子礼拝のメッセージをじっくり聞くことができませんでした。

親子礼拝の前に行われた第Ⅰ礼拝のメッセージの一部を紹介します。

旧約聖書の申命記はモーセの遺言のようなものです。書かれた目的は、出エジプトのとき起きた奇跡(10の災いや紅海がふたつに分かれることなど)を見ていない第二世代の民たちに主なる神のなさった業を伝えることです。

モーセはメッセージの途中で祝福の祈りをしています。

「―どうかあなたがたの父祖の神、主が、あなたがたを今の千倍にふやしてくださるように。そして、あなたがたに約束されたとおり、あなたがたを祝福してくださるようにー(申命記1:11)」


イスラエルの民にとって最大の祝福は、子どもがたくさん与えられることです。これからイスラエルの国を建国していこうというときに民の強さではなく、健康でもなく、イスラエルに子どもが増えることをモーセは祈っています。

なせそう祈ったか……モーセは祝福の原点を知っていたからです。
創世記1:28には
「神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」」
と書かれています。

子どもたちが祝福の原点です。
それなのに自分の都合で子どもたちに接していませんか? 合理性と利便性を追求するあまり、子どもを優先しない社会を作っていませんか?

マルコ10章には、イエス様のもとに来る子どもたちを弟子たちがしかったことが書かれています。イエス様は憤って言われました。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。(マルコ10:14)」


子どもたちの存在そのものが神の祝福です。

それなのに、勉強がもっとできるようにとか、スポーツができるようになどプラスαを求めて喜びにしようとしていませんか?

子どもの存在そのものが祝福であることを多くの人は知りません。イエス・キリストを知らないとわからないことです。
モーセはこれから国家を建て上げていく第二世代に人たちに神の祝福の原点を語り、これを忘れてはならないと言ったのです。



子どもの存在そのものが祝福であることを知っていたのに、わたしは子どもにプラスαを求めていたことを思い出しました。「○○ちゃん大好き。ピアノの練習をしたら、もっと好き」などと言っていたような気がします。無条件で好きとなぜ言えなかったのでしょうか……。
わたしも幼いころ「いうことをきく子が好き」と母に言われて育ちました。母に嫌われることを恐れて逆らうことができなかったのでした。



親子礼拝の後、教会のグラウンドで親子運動会が行われました。チームに分かれて障害物競走、くるくるリレー(おでこを棒につけ、5回くるくる回ってから走る)、綱引きなどで大いに盛り上がりました。

親子運動会の最中に、雨が降ったわけでもないのに虹が出ていました。(写真)アーチ型ではなく、まっすぐな虹でした。
ノアの洪水のあと、神様は虹を立てて言われたことが創世記に書かれています。

「わたしは雲の中に、わたしの虹を立てる。それはわたしと地との間の契約のしるしとなる。(創世記9:13)」


契約というのは、今後大洪水で地を滅ぼすようなことはしない。という神様の約束です。
このときも神様は「生めよ、ふえよ、地に満ちよ」と言っておられます。

礼拝メッセージにつながっているではありませんか!
神様は、こんなにたくさんの子どもたちと大人が共に礼拝を捧げ、神様をほめたたえたことをとても喜んで下さっている。それで教会の真上に虹を立ててくださったのではないかと思いました。



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