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生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

そしてわたしについて来なさい

2009-05-24 17:18:48 | 教会

昨日は教会で結婚式がありました。
新婦の母教会の牧師をされていたK先生ご夫妻も出席されると聞いて娘と一緒に喜んで出かけて行きました。K先生はわたしが土浦に来る前に通っていた、かつての久喜教会の牧師で親子共ども大変お世話になった先生です。

K先生の奥さまは、お風邪のため来られなかったことが残念でしたが、K先生と久し振りにお目にかかることができて嬉しく思いました。K先生は久喜にいたときは3歳だった娘が22歳になっているので驚いておられました。

そして、今日はK先生がメッセージをして下さいました。


聖書箇所はマルコ8:31-38です。
イエス様は弟子たちに
「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。(マルコ8:34)」と言われました。

『自分の十字架を負う』とは、自分自身の楽しみを脇に置いておく(put aside)ことだそうです。
「自分の中にイエス様以外に第一とするものを持っていてはいけない。」と聞いてドキッとしました。

わたしは、童話や小説を書いているときが、最も幸せを感じる時間なのです。この創作活動がイエス様より優先的なことになっていないだろうか?と考えました。

わたしは、自由な時間が与えられた日は、まず最初に聖書の学びをすることにしています。OBI通信の学びですが、2時間もかかることがあり、その後でCS準備や手紙書きなどしていると、創作の時間が全くなくなってしまうこともしばしばです。でも、これでいいのだと思いました。

「神様を第一にすると用いられていく」とK先生が言われました。そのことを信じます。


十字架を背負うというのは、困難なことが起きてもそれを受け入れていくという意味ではなく、自分の意志で困難なことを選びっとっていくことなのだそうです。
エリザベスサンダースホームを設立した澤田美喜さんの話を聞きました。
終戦後、澤田さんがご主人の郷里の鳥取に向かう車中での出来事です。澤田さんの膝の上に網棚から荷物が落ちてきました。荷物をひも解くと、赤ん坊の死体が入っていたそうです。それを見たとき、『死んでいく子の母親になってやれないか』という声が聞こえ、なすべき使命として混血孤児のための養育施設を設立したのです。

自分の意志で困難なことを選びとっていく。これが十字架を担うということです。

「そしてわたしについてきなさい。」
とイエス様が言われました。

ペテロはイエス様から十字架のことを聞いたとき、イエス様の前に立ちふさがってイエス様をいさめました。そのときペテロは「下がれ。サタン。」としかられてしまいました。
でも、後にペテロはイエス様が十字架にかかって下さったことの本当の意味を知るのです。

ペテロの書いた手紙に次のような文章があります。
「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえにあなたがたは、いやされたのです。(Ⅰペテロ2:24)」

あなたがたの罪をではなく、『私たちの罪を』と書いているのは、イエス様が十字架にかかったのは、自らの罪のためであったとペテロが気づいたからです。


十字架は私たちが罪を離れ、義に生きるためだということを改めて教えていただき、深く感謝しました。何を選び取るのか、祈って主に求めていきたいです。



いよいよ明日からクリスチャン・ペンクラブの一泊研修会が始まります。しおりや名札の用意も出来ました。「私の文章作法」についての発表文も書けました。

一昨日から風邪をひき、のどが痛かったのですが、ほとんどよくなってきていることを感謝します。明日からの2日間が守られるように祈りつつ……行ってきます。

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