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生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

群馬の旅(2)

2018-06-07 16:36:28 | 日記
富岡製糸場を見学してから水上の宿で温泉につかりました。
翌日はSLに乗るのですが、16時近くの発車だというので、水上の町を散策しようと計画していました。
バス停に行くと、谷川岳ロープウェイ乗り場行きのバスが止まっていました。すぐにでも発車するというので、「乗りましょうよ」と言って、どれぐらい時間がかかるのか確かめもせずに乗り込みました。

今回の旅行はすべて夫任せで、地図も見ていなかったわたしは、水上から谷川岳の方へ行けるとは思っていませんでした。


30分ほどでロープウェイの乗り場に着きました。



驚いたのは、重なり合う緑の山の奥に雪渓が見えたことです。



ロープウェイは快適でした。ゆっくりと登っていきます。


雪が触れるほど近くにありました。

終点で降りると、リフトが動いていたので、それにも乗りました。
ふと、御嶽山の噴火を思い出しました。今、急に噴火したらどうしよう。何も遮ることのできないリフトに乗っているとき噴石が飛んで来たら……。
100パーセント安全な火山はないのですから。



谷川岳から戻って昼食をとり、水上駅に向かうとSLが汽笛を鳴らしてやってきました。孫に読んであげている「きかんしゃやえもん(阿川弘之作)」を思い出しました。
(やえもんは、おじいさんの汽車なので)
『あしや せなかが いたいので えきを でるときは、「ひゃあ!」とひとこえ
ひめいをあげました。』

という文を読むと、4歳のナルクンが「ゆこちゃんも足や背中が痛いの?」
と言ったのです。わたしのことを年寄りだと認識しているのですね。
「痛いのよ。ひゃあ!」と言って笑いました。
終点の高崎駅から2回乗り換えて土浦に向かいました。天気も最高で、良い旅ができたことを感謝しました。

                      おわり

群馬の旅(1)

2018-06-06 17:02:36 | 日記
6月1日~2日、夫と群馬へ旅行に出かけました。夫が退職してから、SLの旅を続けていました。ほとんど行きつくしたのですが、群馬県水上~高崎間を走るSLにはまだ乗っていなかったので、今回は1泊2日で行ってきました。


まず、世界遺産に登録された富岡製糸場へ向かいました。
高崎から 上信電鉄に乗り換えて、上州富岡駅から歩いて10分ほどのところにありました。駅前は広々としています。れんが作りの建物がたくさんあって、製糸場と間違えてしまいそうです。




富岡製糸場は1872年(明治5年)、明治政府が設置した日本初の本格的な器械製糸工場です。
フランス人が建設を指導したそうです。日本の木造建築と、西洋のれんが建築の技術を融合した「木骨れんが造り」の建物です。
さすが、世界遺産に選ばれただけありますね。まず、れんが作りの建物に惹かれました。主な建物は、明治期のままの状態で保存されているそうです。



工場の中です。女工さんたちが並んで一斉に働いていました。朝ドラ「花子とアン」で、花子の妹かよが、製糸場に働きに出かけ、あまりにも辛くて逃げ出したことを思い出して、過酷な労働を強いられたのだと想像していましたが、そうでもなかったようです。



女工さんたちの寮です。
1日八時間労働で、週休1日。夏冬に休暇が各10日あったということが記録されています。でも、本当はブラック企業だったのではないかという説もあり、真偽のほどはわからないそうです。
                      つづく



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見たまま、聞いたまま、自分の言葉で

2018-05-29 16:48:36 | 日本クリスチャン・ペンクラブ
先週の金曜日は児童文学者協会茨城支部の例会でした。支部長が欠席だったので、久しぶりに司会をさせていただきました。
10人のメンバーのうち6名が参加。
このところ全員出席が多かったので少し寂しいかなと思っていましたが、しゃべりだしたら止まることを知らないわたしたち。昼休みを切り上げての合評となりました。

わたしのほかは詩の作品が多かったので、作詩の極意を詩人のFさんに尋ねると、
「見たまま、聞いたまま、自分のことばで書く」と教えていただきました。

このことは、簡単なようで難しいです。たとえば花を見て、きれいと思ったので『きれいな花』と書いても読者には伝わりません。どこがどのようにきれいなのか、花を見たとき自分はどう感じたかを自分だけしか書けない言葉で書くということです。
なかなか奥が深いですね。

翌日はお茶の水で行われた日本クリスチャン・ペンクラブの例会でした。例会の中でKさんのお祝いをしました。
米寿を迎えられたということと、国から叙勲されたので、皆で寄せ書きをして渡しました。Kさんは30年の間クリスチャン・ペンクラブの活動に参加し続け、皆勤賞だったというので驚きでした。

奥様を亡くされた後も毎日計画を立てて時間通りに聖書を読み、祈り、学び、研究し、家事もこなしておられます。
ときどきクリスチャン・ペンクラブのHPに掲載させてもらっているKさんの詩は、心の奥底に響いてきます。

翌日は日曜で、午後からは孫たちがきました。3日続きで忙しかったので、昨日は疲れ休みの日にしました。やっと充電されたようです。



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弱くてもろい体

2018-05-22 16:47:35 | 教会
わたしの通っている教会は、朝の礼拝が3回あります。8時半、10時、11時半からの約一時間礼拝です。どんどん人が増えてきているので、どの礼拝でも満席に近いです。わたしはティーンズの奉仕をするようになって、毎週第一礼拝に出るようになりました。別の場所で10時からティーンズ礼拝があるからです。

朝早く自転車を走らせていると、息切れ状態で教会に着きます。
讃美歌をうたおうとしても声がほとんど出ず、立っているのもやっとで、椅子の背もたれに手をかけて倒れないようにしています。

でも、ティーンズ礼拝になると、声がだんだん出てきます。分かち合いの時間には元気になっています。
それでも常に肉体の限界を感じています。体の弱さに嘆き、泣きたくなるようなときもあります。
一昨日の礼拝では、弱さに嘆くこの者が大いに励まされました。

ピリピ3:20には、
「私たちの国籍は天にあります。」と書かれています。私たちが帰っていくところに国籍があるというのです。
 
私はこの聖書箇所を読むとうれしくて涙が出そうになります。『天に本当のふるさとがあるのだよ』と言われている気がするからです。
天に国籍があると思うと、苦しみに耐えることができます。

私たちは、罪が赦されたという救いの確約がありますが、完全ではありません。
現実は弱さの中で苦しみ、うめいています


「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。(ローマ8:18)」

将来受ける栄光のことを思うと、このような苦しみはたいしたことがないとパウロは書いています。

そのうち完全な救いが来て、栄光の体に変えられます。栄光の体に変えられることを栄化といいます。
今は弱さともろさにうめいていますが、完全な体になります。


自分の努力でそうなるのではなく、神様が私たちを救い主の栄光の姿と同じにしてくださるのです。
病で苦しみうめいていても、弱くもろい肉体であっても、将来は完全な体にしていただけると思うと、希望が与えられます。何があっても、神は生きておられ、善意をもって導いてくださることを信じて前に向かって歩んでいきたいです。


写真はつくばのバラ園


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もう泣かないで

2018-05-14 20:39:07 | 教会
昨日の礼拝ではH先生が詩編8篇よりメッセージをしてくださいました。

あなたの指のわざである天を見、
あなたが整えられた月や星を見ますのに、
人とは、何者なのでしょう。
あなたがこれを心に留められるとは。
人の子とは、何者なのでしょう。
あなたがこれを顧みられるとは。
詩編8編3~4


これは、旧約聖書に出てくるダビデが書いた詩です。
月や星の美しさをほめたたえているのではなく、それを造られた神をほめたたえています。
「人とは何者なのでしょう」というのは、自分の存在が弱くてもろいと気づき、神との隔たりを感じたときの言葉です。

その隔たりを超え、弱くてもろい人間に神の方から近づいてきてくださるのです。
『顧みる』とは、神が関心を持って近づくという意味だそうです。
裸の自分の姿を知る人に神が働きかけるようすがみられます。


わたしはこの詩が大好きです。満天の星を見て、ダビデが詩を書いている姿が見えてくるようです。

人とは何者なのか……なぜ自分が存在しているのか、存在していいものなのか

中学生の頃、考えていました。誰に顧みられず、心を留められず、ひとりぼっちだったわたし。本当はひとりぼっちではなかったのですが、神様の存在に気づかなかったのです。
天の父なる神様がこのわたしを顧みてくださっていることを知ったら、どれほどうれしかったでしょう。

欠点や失敗がどんなにたくさんあっても関係なく、神様は顧みてくださるのです。おそれ多くて近づくこともできないでいると、神様の方から近づいてきてくださるのです。
いま、神様に顧みられているわたしは、幸せです。人生も終盤になってきましたが、「何も成し得ななかった」と心を痛めたり、後悔したりする必要はないのです。

失意の中におられる友よ、
信仰が失われてしまったかもしれないと思う時でも、神様はぎゅっと手をつかんで離しません。

友よ、いま神様が顧みてくださっています。いま神様が、あふれる愛で満たしてくださっています。だからもう泣かないで……。
友のために祈りつつ。



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弱いときにこそ強い

2018-05-10 17:03:07 | 聖書から
昨日、約一か月ぶりに水曜礼拝に行ってきました。水曜礼拝の後、2か月ぶりに聖書輪読会にも参加しました。
水曜礼拝は、旧約聖書の士師記(ししき)14章15から20節で、『サムソンの妻』というタイトルでした。

聖書物語では、サムソンのことを『今 まで に 生ま れ て き た 人 の 中 でいちばん 力持ち だっ た 人』と紹介しています。
確かにサムソンは怪力で、素手でライオンを倒すほどの力を持つ強い人でした。でも、サムソンは弱い人でもありました。

サムソンの時代、イスラエルとペリシテ人とは反目しあっていました。
イスラエル人のサムソンは、ペリシテ人の娘を気に入って結婚することになり、祝宴が催されました。
祝宴に30人を招待しましたが、招待した人には晴れ着を用意して与えるという習慣があったので、ペリシテ人は、策略をめぐらしてサムソンにそれを求めました。

サムソンは謎かけをして、謎解きに勝ったほうが30人分の晴れ着を用意することにしようと提案しました。
その謎は「食らうものから食べ物が出、強いものから甘いものが出た」です。この意味を解き明かせというのです。これは、サムソンが素手で獅子を倒したのち、獅子の体の中にミツバチの群れと蜜があるのを見つけ、食べたという経験をもとにして作ったなぞなぞでした。

ペリシテ人たちは4日たっても謎が解けないので、サムソンの妻にサムソンをくどいて謎を明かし、知らせるように促します。

サムソンの妻は泣きすがって謎を教えてくださいとサムソンに迫ります。
サムソンは抵抗しましたが、耐えられなくなって7日目に打ち明けてしまいました。

そのことによって、晴れ着も妻もペリシテ人に奪われてしまいました。

サムソンは、強い人だったはずなのにどうしたことでしょう。
絶対に解けない謎を考え出したことは、サムソンの勝利でした。
一方、妻に泣きつかれて、謎を明かしてしまったことは敗北で、サムソンの弱さの表れでした。
こののち、サムソンはまた同じような過ちを犯してしまいます。

サムソンの勝利の秘訣は、自分の力が主によるものだと自覚することです。なぞなぞも主の力が働いたからこそ得られました。アシュケロンでの戦いも自分一人なら勝てなくても、主が共にいてくださったから勝てたのです。
サムソンはティムナの町では敗北しました。妻も取られてしまいました。

人生の中で勝利することもありますが、敗北することもあります。
『敗北で自分の弱さを知り、勝利で主を知る』

イエス様は試練や苦しみを味わってくださいました。イエス様はわたしたちに生きる模範を示してくださいました。
わたしたちは、弱さを覚えますが、神の力のゆえに強くされ、キリストによって勝利を得るのです。


「ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです(Ⅱコリント13:4)」
と聖書に書かれています。

『弱いときにこそ強い』とは神様を抜かして考えると、どういうことなのか分からなくなってしまいます。
わたしはよく病気をします。というか、常に病との戦いがあります。病が優勢になると、じっとして寝ていることしかできなくなります。自分の無力をとことん感じます。

かつては、具合が悪くなると、自分がみじめになっていました。そして、早く癒されたいとあせりました。
でも、最近は、具合が悪くてもあせらなくなりました。この弱くて何もできない時間を与えられたのには意味があるのだと思うからです。

先月の病のときは、末期がんの友にメールを出すという使命を与えられ、背中が痛んでたまらなかったときには、童話の構想が与えられました。収穫は大きかったです。



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お弁当箱食べた?

2018-05-05 20:45:01 | 家族
連休は、息子一家と娘一家が来て、大賑わいでした。
「天気が良いからどこかへ出かけたいね」と、わたしが言うと娘は、「どこも混んでいるし、行くと疲れるでしょ」と、わたしの身体を気遣って言いました。

そういえば、具合悪かったんだ……。病気になったことをもう忘れていました。

「近くでいいからお弁当持って出かけたいなあ」と言うと、「すぐそこの桜川の土手でいいじゃないか」と夫が言って、歩いて5分の桜川に行くことにしました。

なぜ外でお弁当が食べたいかというと、それにはわけがあるのです。
先月4歳のナルクンが、「今日、保育園でピクニックに行ったの。それでお弁当箱食べたの」と何度も言ったからです。
「お弁当箱じゃなくて、お弁当でしょ」と言っても、「お弁当箱食べたの」と言います。
「じゃあ、今度はお弁当を食べようね」と約束していたのです。

ちょうどお昼の12時ごろ、おにぎりを持って出かけました。大人5人、子ども3人で河川敷まで下りていきました。そこには誰もいませんでした。

娘の子どもマークンは、生後10か月になりました。丸々と太ってよく笑います。全く人見知りをしないので、みんなに可愛がられています。

お弁当箱じゃなくて、お弁当を食べてから、ヒックンとナルクンは、パパとビーチボールで遊び、マークンはシートの上で腹ばいになって遊びました。






緑が目に染みるほどきれいでした。


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ペン仲間と共に

2018-04-26 15:56:13 | 日本クリスチャン・ペンクラブ
今日は美容院に予約を入れていたので、歩いて行ってきました。徒歩だと美容院までちょうど30分です。今日は、早く歩く自信がなかったので40分前に家を出ました。途中で小休止して水分補給し、着いたらちょうどの時間でした。
今までもっと速く歩けていたのに……。途中で休んだことなかったのに……。年のせいかなと思いましたが、病気のせいでしばらく運動していなかったことが原因で、慣れればまた速く歩けるようになると自分に言い聞かせています。

日本クリスチャン・ペンクラブで出しているニュースレター36号からわたしの書いたエッセーを紹介します。


ペン仲間と共に


私が初めて日本クリスチャン・ペンクラブ(JCP)に足を運んだのは50周年記念のときですから、ちょうど15年前になります。
以前から日本クリスチャン・ペンクラブの名前は知っていました。でも、子どもが小さかったので、御茶ノ水での例会は行けませんでした。
何年かたってJCP50周年であかし文章を募集していることを知り、それに応募しました。しばらくして入選の通知が届きました。  
50周年記念会で表彰式が行われると聞いて、御茶ノ水まで出向いたのでした。記念会で、神様のすばらしさを文章で伝えたいという同じ志を持つ方々に出会って、ふるさとに帰ったようになつかしさを感じました。その日のうちに入会を決意し、毎月通うようになりました。
奇数月に行われる例会では、まず礼拝があります。文章の学びをする前に神様に心を向けることが第一だと教えられました。礼拝の後、あかし文章についてのレクチャーを受けたり、文章の書き方について学びます。その後、4~5人のグループに分かれて作品の合評をします。

偶数月に行われている童話エッセーの集いにも参加しました。前理事長の池田勇人先生が「小さな群れよ。恐れることはありません。(ルカ12:32)」と言ってすすめてくださった少人数の会です。
童話エッセーの会では、「鍵、海、雨、声、靴、橋」などのテーマを決め、テーマに沿った作品を書き、互いに読みあって合評します。

自分が書いた文章を他の人に読んでいただき批評されることで、ひとりよがりだった文章がだんだんと変えられていきます。自分では十分わかっているので伝わったと思っていたら、全く伝わってなかったり……。ダイレクトに書きすぎて失敗したり……。テーマに沿って書けなくて、最後にとってつけたようにテーマの言葉を入れたり……。

作品を書くということは、産みの苦しみです。でも、苦しいからこそ、書き上げたときには感謝と喜びでいっぱいになります。神様が書かせてくださったのです。お仲間がいるから、ここまで書き続けてこられたのです。
童話エッセーの会で、私はほとんど毎回童話を書いて提出していました。なぜ童話かというと、子どもたちに神様の愛を伝えたいと思っているからです。

私は子どものころ、自己価値が分からなくて生きることが非常に辛い状態にありました。劣等感が強く、自分が欠陥人間のように思っていました。
何のとりえもない自分。いてもいなくてもいい存在。人間としての価値がないと、自己否定ばかりしていました。
自己を肯定できないと、他者のことを愛することができません。わたしは、自分自身を愛することさえできなかったのです。
そんな私が神様の存在を知って、変えられました。天地万物を造られた神様は、この世界を造られるとき、ひとつひとつに「よし」とされたと創世記に書かれています。神様は私のことも造られたとき、「よし」と言ってくださったに違いありません。自分は神様によって造られた価値ある存在なのです。

神様は、「何のとりえがなくてもいい。そのままでお前を愛する」と言ってくださっています。
罪のため滅んでいくしかない私の代わりに、ひとり子のイエス様のいのちを差し出すほど愛してくださる神様。私はこの神様の愛に圧倒され続けています。
『わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。(イザヤ43:4)』と言ってくださる神様のことを、自己肯定できない子どもたちに小説や童話を通して伝えたいと思っています。 



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荒野の旅

2018-04-21 11:22:26 | 聖書から
19日は教会での家庭集会でした。一週間前に家庭集会お知らせメールを出したときは、不安でした。その日、まだ具合が悪くて、皆さんに中止のメールを送ることになるかもしれないという恐れがありました。でも、神様はその日までに癒してくださり、祝福をくださいました。参加者11名は家庭集会始まって以来の大人数です。

学びの一部を紹介します
イスラエルの民は、エジプトで奴隷として苦しめられていました。神様から選ばれたモーセは、イスラエルの民を引き連れて40年間も荒野の旅をしました。

何もない荒野で60万人の人が養われました。マナが空から降ってきて、人々はそれを集めて調理して食べました。水がないとき、モーセが岩を打つと水が出ました。

教会学校で子どもたちによく話しました。お話の準備をするときは聖書を読みますが、出エジプトの箇所を物語のようにして読んでいました。
けれども実際はどうだったのでしょう。水のないことでもめていますが、水は毎日欠かせないものです。泉や池や川のほとりにばかり天幕を張ったわけではなかったでしょう。移動しているときも、水がないと大変なことになります。

「四十年の間、あなたは彼らを荒野で養われたので、彼らは何も不足することなく、彼らの着物もすり切れず、足もはれませんでした。(ネヘミヤ記 9章21節)」

と書かれていますが、40年同じ服を着ていて擦り切れなかったとしたら、現代の服より長持ちする服を着ていたことになりますね。

神様は、水や食べ物を毎日豊かに与えてくださいました。
民が「肉が食べたい」とつぶやいたときは、神様はうずらの大軍を降らせてくださいました。

アマレク人との戦いもありました。神様は民を守り、勝利に導いてくださいました。

イスラエルの民が行く先を知らなかったとき、神様は雲の柱と火の柱で道を示してくださいました。

『神様が厳しい荒野での生活を素晴らしい祝福の場所に変えられたのです。』とレジュメに書かれていました。
神様はなぜイスラエルの民を荒野に導いたのでしょう。まっすぐ進めば一年もたたないうちにカナンの地に到着できたのに……。
その答えは聖書にありました。

「あなたの神、主が、この四十年の間、荒野であなたを歩まされた全行程を覚えていなければならない。それはあなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。(申命記8:2)」

このことにより、荒野が祝福に変えられます。荒野の道を歩ませておられる方は神様ですから、民を荒野でいたずらに苦しめようとしているわけではないことがわかります。

痛み、苦しみの中に神様はおられます。
苦しい目にあって、不平不満を言うときは、神様が見えなくなっているときだと聞いて、その通りだなあと思いました。

わたしは今回予想もしなかった病気で二週間寝込みました。神様はなぜわたしをこのような苦しい目に合わせるのだろう……と思いました。そのときは神様が共におられることを忘れていました。

末期がんの友人にメールを送るという使命を与えられてからは(前回の記事に書いています)慰めの言葉が書けるようにひたすら祈って、必死な思いで書きました。そのときは自分の身体がつらいことを忘れていました。むしろ、こんな状態だからこそ、書ける言葉があったのだと思って、病を感謝しました。
なぜこのときに友人にメールを送ることになったのか……説明がつきません。神の配剤でしょう。




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絶望の隣にいる人は?

2018-04-14 16:04:46 | 日記
体調は回復してきています。時々後戻りしながら、薄紙をはがすように良くなっていくので、まだ忍耐が必要です。あせってはいけませんね。

今年は、桜が咲いている期間は長いほうだったのに、見ることができませんでした。すぐ近くの桜川の土手で咲いていたのに……。
でも、来年は見ることができるでしょう。

先月末、まだ熱があるときでしたが、学生時代の人形劇部『ろっち』の友人(Nちゃん)がホスピスに入ったという連絡を受けました。1年半くらい前に子宮がんとの診断を受け、すでに転移していて手術ができないと聞きました。

ちょうど白川郷に還暦旅行をしようと計画していた時で、当然Nちゃんも参加するはずでした。ところが、参加できなくなったと連絡があり、もうひとりの友は仕事が休めなくて2人欠席、9名で出かけたのでした。

Nちゃんは抗がん剤治療の合間に友人と出かけたりしていたので、それほど悪いとは思っていませんでした。でも、病はどんどんすすみ、今年の2月には足がパンパンに腫れていたと聞きました。
そのようなときに、ロッチのメンバーひとりひとりに巾着袋を作ってプレゼントしてくれたのです。(写真)大きさは手のひらに収まるくらいです。
ひと針ひと針に想いが込められています。

ホスピスは積極的な治療はせず、緩和ケアーを行う病院です。
何人かがお見舞いに行きましたが、「会いたいけど、会えない」と言われて会えなかったそうです。

「Nちゃんを慰める手紙を書いて」S子に頼まれましたが、熱のため手紙を書くことはできません。

でも、Nちゃんには伝えなくてはならないことがあります。『のこされている時間は短いかもしれない。』そう思ったとき、わたしは、メールにして毎日少しずつ書いて送ることを思いつきました。

「無理したらあかん。熱があるときに書かなくていい」クリスチャンのS子からのメールです。必死に叫んでいる声が聞こえるようでした。
「わかった。無理せんと、ぼちぼち書く」
「そや。ぼちぼちやで」

携帯でそんな会話をしたのですが、その日の夕方には横になりながら携帯を片手に持ってNちゃんに書き始めていました。
最初の2通のメールは短く。3通目書くときは熱が下がっていたので少し長く書きました。

福音そのもの(イエス様がしてくださったこと)を伝え、自分が救われたときのことと、救いを受け入れて、どれだけすばらしい人生をおくっているかについて書き、天国のこと、永遠のいのちについて書きました。毎回最後には聖書のことばを書きました。

毎日一通ずつ送っていて、7通目を書いたとき、書くことがなくなったと思ったのです。それでも、メールを待っているかもしれないと思って8通目を送ったのち、間もなくS子からの電話で、Nちゃんが召されたことを知りました。

8通目は読まれることはなかったのです。でも、7通のメールは確かに読んでいたと、お姉さんから伝えられました。
(Nちゃんは子どもがいなく、ご主人は2年前に亡くなっています。お姉さんがずっと付き添っておられたようです)

Nちゃんが救いを受け入れたかどうかわかりません。でも天国にいったとき、Nちゃんがいちばんに出迎えに来てくれるような気がします。

昨日の読売新聞、編集手帳に5年前に94歳で亡くなった、アンパンマンの作者、やなせたかしさんの詩が紹介されていました。

絶望の隣に
だれかがそっと腰かけた
絶望は
となりのひとにきいた
「あなたはいったいだれですか」
となりのひとはほほえんだ
「わたしの名前は希望です」


絶望の隣にある希望。クリスチャンのやなせたかしさんは、キリストにある希望は、絶望を希望に変えると綴りたかったのではないかなと思いました。


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お久しぶりです

2018-04-10 15:11:57 | 日記
こんにちは。
ずいぶん長い間ブログ更新できませんでした。このようなことは、ブログ開設以来初めてです。
風邪をひいて38℃の熱を出し、2日後には下がったのですが、再び発熱して今度は39.6℃でした。
腰の激痛とともに熱が上がり、七転八倒の苦しみでした。

病院へ行くと、急性腎盂炎ということで、安静を命じられました。
入院にならないだけよかったのですが、薬を飲んで寝ているしかありません。
今日で12日目です。2回礼拝に行けませんでした。礼拝メッセージはPCで聞けました。

家事のほとんどは夫がやってくれています。食事作りは、これまでも週に一度程度ですが、やっていたので慣れたものです。
今回は一日おきに料理をし、料理しない日はスーパーに行って総菜を買ってきてくれました。

当たり前にやっていたことができなくなると、できていたときもっともっと感謝しなければならなかったなあ……と思いました。夫にも感謝しなくてはね。
今日はここまで。


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心はうちに燃え

2018-03-23 13:30:22 | 聖書から
4月1日はイースターです。
イースターとは、キリストの復活を記念して設けられた祭りです。

キリストの復活とは、キリストが十字架につけられて死に、3日目によみがえられたことを意味します。

イエス・キリストは何も悪いことをしてないのに十字架につけられました。どういうことでしょう。

わたしたち人間は、生まれながらに罪を持っています。罪のために神様から罰を受けなくてはならない者たちです。でも、神様はわたしたちに罰を与えるのがしのびなくて、わたしたちの身代わりとしてひとり子のイエスを十字架につけてくださいました。
神様はそれほどわたしたちを愛してくださっているのです。

イエス・キリストは、十字架につけられて死にました。でも、3日目によみがえられたのです。弟子たちの前に何度も姿を現してくださいました。
家庭集会でも礼拝でもエマオ途上の箇所(ルカの福音書24:13~35)が取り上げられたので、エマオ途上のシーンを物語ふうに書いてみました。

二人の弟子がエルサレムからエマオという町に向かって歩いていました。二人はうつむいて、何度もため息をついていました。師と仰いでいたイエス様がむごい死に方をしたのです。
「あの方が王様になって同胞の者たちを救ってくれると思っていたのに……」
「どうしてこんなことになったんだ。あの方にすべてを賭けていたのに、これから誰を頼りに生きて行けばいいんだ……」
そのとき、ひとりの人が近づいてきて「何を話しているのですか?」尋ねました。弟子たちは、「近ごろ起こった出来事を知らないのですか?」と逆に質問しました。

その人は旧約聖書の中に救い主の預言が書かれている箇所から、二人の弟子たちと語り合いました。語っているうちに二人の心はうちに燃えました。
夕方になってもその人はまだ先へ行こうとしたので、弟子たちは自分たちの宿に誘いました。

夕飯の時、パンを裂いたその人を見て、弟子たちはあっと驚きました。その人はイエス様だったのです。これまでは二人の目が遮られていて、気づかなかったのでした。
それからイエス様の姿は見えなくなりました。

弟子たちは、すっかり暗くなった夜道を走り出しました。エルサレムにっもどって仲間たちに知らせるためです。
「イエス様はまことの救い主です!」
「イエス様はよみがえられました!」
ふたりは夜道の危険も暗さも全く気にすることがなく、走り続けました。心がうちに燃えていたからです。



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一週間のできごと

2018-03-22 17:25:18 | 日記
16日は家庭集会のあと、都内に向かいました。従妹と妹と姪の4人で待ち合わせて夕食を共にし、妹宅に泊まりました。17日が御茶ノ水で開かれるクリスチャン・ペンクラブの例会なので、皆がそれにあわせてくれたのです。
このメンバーで集まるのは初めてです。楽しく語りあい、貴重な時間を過ごしました。

クリスチャン・ペンクラブでは、原稿を持ち寄って合評が行われました。それぞれが自分史を書いています。後日「百花繚乱」というタイトルの本として出版されます。
ペンクラブ例会前に妹と古書店を巡りました。鳥専門の古書店で鳥の生態が書かれた本を買えたのは大きな収穫でした。(海鳥の童話を書いています)

翌日の日曜は洗礼礼拝で、TEENSのメンバーが3人も洗礼を受けました。

午後からは娘たちが、婿の実家での法事の帰りに立ち寄ってくれて、大きくなったマークン(10か月)を抱くことができました。

月曜日はお疲れ休みの日にしようと思っていたら、ナルクン(3歳)が熱を出して預かることになりました。来たときは37℃台だったのに、夕方になると38℃を超えました。頓服を飲ませたのですが機嫌が悪く、夜中に「ママに会いたい」と泣きだしました。

「ママに『バイバイ』って言えばよかったのに『さよなら』って言ったから、もう会えなくなっちゃった」と言って泣きます。どんなに慰めても泣きやみません。こんなことは初めてです。こちらも悲しくなって、一緒に泣いてしまいました。

おじいちゃんが、抱っこしてドラえもんのDVDを見せて気をそらし、ふとんに寝かせると落ち着いてやっと眠りました。

朝になると「ぼく、いっぱい泣いた。ママに会えなくなったと思ったから」と言って笑いました。ちゃんとわかっていて、言葉に表せるとは驚きです。
昨日になってやっと熱が下がりました。ママに抱かれて大喜びです。

明日はまたヒックンとナルクンが来て、しばらく預かります。

新しいPCへの切り替えは、いつになることやら……。


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つくしが顔を出しました

2018-03-15 16:41:54 | 日記
さむい冬から一転、一気に春になりました。
教会へ行くとき渡る橋の手前、いつもの場所につくしが顔を出していました。

2,3日前にはまだ生えていなかったのに……。生えていたのに気づかなかったのかもしれませんが……。

「まだ冬物は片づけないでください」と天気予報で言っていました。明日あたりから寒さが戻ってくるのでしょうか。
明日から泊りがけで出かけるので、真冬のコートで行こうかどうか迷っています。

パソコンを新しく買いました。バッテリーとEドライブの挿入口が壊れてしまったからです。調べたら、買ったのは6年前でした。修理して10年はまだ使いたい気持ちですが、限界を感じて買うことにしました。

さて、大変なのは初期設定です。これまでは息子か娘がやってくれたので何の苦労もしませんでした。今回は主人と二人暮らしになので、できるかどうか不安でした。
購入した家電の店員さんに相談すると、5年間保証に入れば、Officeは無料で設定してくれるといいます。入ることにしました。。

でも、これで終わりではありません。ウイルス対策ソフトの設定、アウトルックのアドレス帳の移動、プリンターの設定……。新しいPCでダウンロードするものもたくさんあります。特に、HP更新するときに使うFFFTPソフトがうまくダウンロードできるか心配です。前回はそれだけ自分で設定しようとしたのですが、ダウンロードはできても設定ができず、結局、息子が来るまで何日も待っていたのでした。

お知らせが遅くなりましたが3月10日に日本クリスチャン・ペンクラブのHP更新しました。ここをクリックしてぜひごらんください。次の更新は、新しいPCからできますように。


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信じたら起こる変化

2018-03-13 16:24:32 | 教会
日曜日は礼拝で3・11の祈りを捧げました。ここ土浦では人的被害は少なかったものの、震災後、屋根にブルーシートがかけられている家が何軒もあったことを思い出しました。
バッハのG線上のアリアが演奏され、黙とうしているうちに涙が流れてきました。

新約聖書ピリピ人への手紙3:10、11からメッセージをいただきました。
「私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、どうにかして死者の中からの復活に達したいのです。(ピリピ3:10-11)」


キリストを信じたら、新しいいのちが与えられます。そして内側に変化が起こります。その変化は、修練によるのではなく、また人の努力によるのでもありません。神様が新しいいのちを植え付けてくださることによるのです。
キリストを信じることによって起きる変化はどういうものでしょう……。

私の場合を書いてみます。メッセージの中で挙げられたものと似たものが多いです。

①罪からの解放 赦された喜び

罪に気づく前は、いつも自分が正しいと思っていました。神様からの光に照らされて、罪を自覚したとき、あまりにも多くの罪があることに気づき愕然としました。そして、このままではいけないと思って、教会へ足を運んだのです。
このような者でも罪が赦されると知って嬉しかったです。

②空しさからの解放

中学生の時は空しさを感じ、何のために生きているのかわかりませんでした。生きる意味なんかないじゃないかと考え、死を望んでいました。でも、キリストに出会って生きる意味が与えられて、心の隙間が埋められました。

③漠然とした不安からの解放

人はどこから来て、どこへ行くのでしょう。神仏には頼れないと思い、確固たる真の頼れるお方に出会いたいと思っていました。イエス様に出会ったとき、この方こそ、わたしの主だと思いました。

④死後どうなるのかについての解決。死の不安からの解放
 
どんな人でも、必ず老いと死はやってきます。死は終わりではないのです。天国に行けることを信じたら、平安が訪れました。

⑤生きる目的がわかった

この世界の始まりも、自分が生まれたことも、すべて偶然によるものだと教えられていたので、何のために生まれてきたかわからなかったのです。劣等感が強くて、自分は人間失格だと思っていました。
神様のために生きるという目的が与えられていることを知り、感謝しました。

⑥自分がどれだけ愛されているかわかった。

神様は、わたしの罪を赦すため、ひとり子イエスを十字架につけてくださいました。それほどわたしを愛してくださっているのです。こんなに感動することはありません。

ヨハネ3:16「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」

世の代わりに自分の名を入れてみると神様の愛がよくわかります。いつもこのことを思っていたいです。

⑦将来の希望が与えられた

キリストを信じた者には永遠のいのちが与えられることが約束されています。イエス様が天国でわたしの場所をあらかじめ備えてくださっています。だから、何の心配もありません。

⑧洗礼を受けても罪を犯すことはあるが、罪の中にとどまることがないようにされた。

わたしの場合、これらの変化は洗礼を受けたときに一度に起こったのではありません。
洗礼を受けた時点では、①だけでした。その後、聖書を読み、教会生活をおくる中で、少しずつわかってきました。
キリストを知る絶大なる恵みを知ってうれしいです。


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