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生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

生きている言葉

2018-03-08 16:22:06 | 家族
今日は朝から冷たい雨が降っています。明日がピークで、明後日も雨が続くそうです。明日は出かける用事があるので、久々に長靴とレインコートを用意しました。

この前の土曜、日曜、ヒックンとナルクンが来ました。

昼寝をさせようと布団を敷いていたら、「そんなに大きな声を出さなくても聞こえます。」と、ナルクンが言いました。特別大きな声を出しているわけではなかったので「何のこと?」と尋ねると、「小さな声で言ってちょうだい」と言われ、内緒話のように話すと、満足げな顔をしていました。

保育園で昼寝のととき、先生に言われた言葉をそのまま言ったんじゃないかなと思いました。こんなふうに注意されているのね。

ナルクンは元気が良くて、かなり離れたところにいても、どこにいるかわかってしまうほど常に大声を出しています。(家に遊びに来るときは、車が着いたとたん、駐車場から声が聞こえてきます。)迷子にならなくていいかもしれません。

カルタで遊んでいると「手が痛い、絆創膏貼って」と言いに来ました。赤くもなっていないので「どうしたの?」と尋ねると、「ゆこちゃんの手が痛い」と答えました。
1か月前にナルクンと遊んでいたとき、私の手が急に腫れて痛くなったことを覚えていたのです。

3歳児の記憶力ってすごいですね。次々新しい言葉を覚えて、間違って覚えても更新していき、少ない語彙の中から選んで一生懸命話しています。
先日は「やばい、やばいよ」と言っていました。きっとお兄ちゃんが言っていたのですね。

言葉の力は大きいです。

聖書の言葉は、神様の言葉ですから、力があります。
イエス様は悪魔に誘惑を受けたとき、すべて旧約聖書の言葉を用いて答えられました。

40日の断食のあと、空腹を覚えられたイエス様に向かって、悪魔は石がパンになるように命じなさいと誘惑します。でも、イエス様は「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出るひとつひとつの言葉による」と書いてあると答えられました。それは、旧約聖書の申命記8:3に書かれている言葉の引用です。

わたしは心が神の言葉で満たされたくて、毎日のデボーション(聖書を読み、祈る時間)で心に留まった聖書の言葉を単語カードに書いて覚えるようにしています。


「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。(ヘブル4:12)」



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叶えられるとしたら、何を願い求めますか?

2018-02-28 16:21:40 | 教会
願い求めるものは何でもかなえられると聞いたら、何を求めるでしょう。金銭ですか?
健康ですか? 不老長寿ですか? 

昔、ソロモン王は、神様に知恵を願い求めました。
箴言3:13には「幸いなことよ。知恵を見いだす人」と書かれています。知恵を願い求め、与えられたソロモンが書いたのです。

知恵を求めたソロモンはすごいですね。
知恵はいのちの木となるとソロモンは言っています。
神様は知恵を求めたソロモンを喜び、惜しげもなく与えています。知恵だけでなく、地上の富も与えました。

今日、水曜礼拝でヤコブの手紙からのメッセージを聞きました。

ヤコブの手紙1:5には次のように書かれています。
「あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。」

わたしたちにも知恵を与えていただく資格があります」と牧師先生が言われました。
なぜでしょう。

父である神様は、子であるわたしたちを愛しておられるからです。
わたしたちは神の子なので、父から知恵をいただくことができるのです。
ヤコブの手紙1:6には「ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。」と書かれています。

わたしには、願いがありますが自分のために祈ることにためらいを感じていました。毎朝のデボーションでは、祈りのカードに友人知人の名前を書いて、ひとりひとりのことを祈り、自分のことは最後に少し祈るだけでした。

ましてや、自分の願いを祈るのにはためらいがありました。
自分勝手な願いかもしれない。あるいは、自分が認められたいからかもしれない。いえ、神様の栄光のためにやっていることだから、願ってもいいのだろうか……。と、悶々としていましたが、「神様は、願ったことを必ずかなえてくださいます。自分のためにも祈りなさい。」という勧めに勇気を出して自分のために祈りました。

上の写真は桜川の土手の桜。つぼみがふくらんできています。


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失敗の多い人生

2018-02-20 17:05:33 | ティーンズ
失敗や挫折は誰でも経験することですが、失敗や挫折が少ない人生と、多い人生とどちらが良いかと問われたら、「少ない方がいい」と答える人がほとんどではないでしょうか。

TEENSでエイブラハム・リンカーンの話を聞きました。リンカーンは、アメリカの最も偉大な大統領の一人にあげられています。
彼は失敗や挫折の多い人間でした。
9歳で母を失い、その後、姉、恋人、長男を失っています。

また、22歳でビジネスに失敗。23歳で地方議員選挙落選。24歳で再度ビジネスに失敗し、27歳で精神の病にかかりました。34歳、39歳、46歳で選挙に落選。47歳の時、副大統領選挙に敗れ、49歳で再び上院議員選挙に落選しました。

リンカーンは、失敗するたび、それにこめられている神の思いを心に留めました。失敗や挫折をするたびに、謙遜、忍耐、愛を培ってきました。

普通なら自暴自棄になってしまうかもしれません。こんなに落選が続いたら、もう選挙に出るのは辞めようと思うでしょう。
「お前はもうだめだ」というサタンの言葉に耳を傾けてしまったら、次への挑戦はなかったかもしれません。

また、「あの人はこんな失敗しないだろう」と人と比べてしまうと、自分がみじめになるだけです。


どうして挑戦する気持ちを失わなかったか……それはお母さんの言葉に忠実に従ったからだと思います。

母は亡くなる前にリンカーンにこう話したそうです。
「聖書をよく読み、聖書の言葉通りに、神を愛し、隣人を愛する人になりなさい。」

聖書には多くの人たちの失敗が書かれています。伝記には失敗や挫折がほとんど書かれていませんが、聖書には包み隠さず記されています。

ダビデもたくさん失敗をしました。恐れのあまり、アビメレクの前で気が違ったかのようにふるまい、彼に追われて去ったとき書いた詩が、詩編34篇に記されています。
「この悩む者が呼ばわったとき、主は聞かれた。こうして主はすべての苦しみから彼を救われた。(詩編34:6)」
ダビデを力づけた神の言葉は、エイブラハム・リンカーンを力づけ、今わたしを力づけてくださっています。


祈り
失敗が多いほど愛が深くなれるなら、挫折が多いほど謙遜になれるなら、どうか失敗や挫折の多い人生にしてください。

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ひどい悪口を言われて落ち込んでいるあなたへ

2018-02-12 16:51:16 | ティーンズ
君の存在

言葉は人を殺すんだね
いじめられ、ひどい言葉を投げつけられ、
傷を負って心はボロボロ
平気な顔をしてバカみたいに笑っているけど、
心は悲鳴を上げている
もうがまんできない
辛抱の糸が切れてしまった

ちょっと待て。君を傷つける言葉を放ったのは人間ではないか
人間の言葉は、魂を殺すことはできないんだ
どんな言葉を浴びても、君の存在そのものは否定されない
君は欠点があるかもしれない、
弱さがあるかもしれない、
罪を持っているかもしれない
でも、そのままでいいんだ
そのままの君の存在をよろこんでくれるお方がいる


昨日TAKEOさんのコンサートが教会でありました。心臓移植を受けたひろくんの感謝コンサートとしてTAKEOさんが来てくださったのです。
礼拝や教会学校、TEENSにも来て賛美してくださいました。

TEENSでは千円札を出して、何度も折り曲げました。「折っても千円です。価値は変わりません。」くしゃくしゃにして、「これも千円です。価値は変わりません。」と言われました。印象に残るメッセージと賛美でした。


聖書の言葉 イザヤ43-4
わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

上記はTAKEOさんのメッセージと賛美を聞いて書いた詩です。




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すべてはご計画の中で

2018-02-08 21:07:05 | 日記
昨日自転車で転んでしまいました。骨粗鬆症なので、絶対に転んではいけないと思っていたのに歩道の溝にタイヤがとられてころびました。膝と右手をつきましたが、痛みはありません。

恥ずかしいので、さっと自転車をたて直し、急いで走らせました。しばらくして籠に入れていた手提げがないのに気づきました。振り返ると、転んだあたりの場所に何かが落ちています。
あわててもどると自分の手提げでした。気づいてよかったです。

家に帰ってみると、両ひざが青くなっています。でも、たいしたことなさそうです。夕方ヒックンとナルクンをあずかってほしいと言われたので、PC作業をしてから夕飯の支度をしました。夕方ヒックン、ナルクンが来たので夕飯を食べさせ、そのあとナルクンと遊んでいるとき、畳にちょっと手をついたら、しびれたような痛みが走りました。よくみると腫れていて、てのひら全体が赤黒くなっています。指が動きません。右手(利き手)なので、字も書けません。

転んだとき右手をついたからでしょうか? でもそれならなぜすぐに痛みが出なかったのでしょうか。骨折していたらどうしよう……。
ナルクンが心配してバンドエイドを持ってきてくれました。

湿布を貼って寝ましたが、痛みでなかなか寝つけませんでした。
パソコントラブルがあってやっと落ち着いたところで骨折だなんて……。

でも、すべてのことは神様のご計画の中にあります。なぜこんなことが起きるのかと思うようなときも、意味のあることなのです。今はわからなくても、このとき流した涙が喜びにかわると信じます。

『できれば、骨折でありませんように。でも、ゆだねます。痛みと不自由さが今のわたしに必要ならすべて受けます。』と祈ると平安が訪れました。
朝になったら痛みも腫れもなくなっていました。指もよく動きます。念のため整形外科に行ってレントゲンを撮ってもらいました。骨折ではありませんでした!!感謝します。

聖書の言葉 「夕暮れには涙が宿っても、 朝明けには喜びの叫びがある。(詩編30:5)」



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だいきらいってことは、だいすきってこと

2018-02-02 16:24:08 | 家族
インターネットに不具合があって、あたふたしていたらいつの間にか2月になっています。早いですね。

孫のナルクンは3歳10か月になります。反抗期真っ盛りです。
ママが泊りの仕事があるので2週間に一度はお兄ちゃんのヒックンとふたりで我が家に泊りに来ます。

車中で「今日は保育園楽しかった?」「お友達と何して遊んだの?」と尋ねると「うんこ。うんこ」と言います。「大変、うんこ出るの? 近くにコンビニあるかしら」わたしが言うと、10歳のヒックンが「ただおもしろくて『うんこ』って言ってるだけだよ」
と言うので、ほっとしました。

ヒックンによると、『うんこ』っていうと大人が「えーっ!」という反応するからおもしろくて言うのだそうです。
それから、「おじいちゃん、だいきらい。パパもママもヒックンとゆこちゃん(わたしのこと)もだいきらい」と言うので、「それじゃあ、だいすきな人はいる?」
と、尋ねると、

「だいすきな人は、ゆこちゃんとおじいちゃん。パパとママとヒックンも」
「だいきらいってことは、だいすきってことだね。」
「うん」
ナルクンはにっこりしました。

わが屋はマンションの2階ですが、家に着いたとたんナルクンが床でとびはねるので、「下の家の人がびっくりするから、やめてね」と言うと、さらに強くドンドンとびはねます。本気でしかるとやめたのですが、大声で泣きだしました。

「ほおっておいて。ナルはわざと大きな声を出しているんだよ」と、ヒックンの言葉に助けられました。
おやつを食べてほっと一息ついていると、

ナルクンがディズニーのピノキオのカルタを持ってきて遊んでと言いました。以前、ヒックンが遊んでいたものです。ナルクンはまだ字が読めないのにどうやってカルタ遊びをするのでしょう?

絵札はカラフルでとてもいい絵なので、紙芝居のようにして絵札を見せながらお話ししました。

それから字ではなく、どんな絵が描いてあるか説明して絵札を探させると、ナルクンはすぐに見つけて大喜びです。

カルタで遊び終わってから突然「ぼく、いい子になる」と言ったので、驚きました。自分が悪い子だと思っているのでしょうか?

ピノキオが嘘をつくと鼻が伸び、悪いことをするとロバになってしまうことを聞いてそんなことを言ったのかもしれません。
しばらくは、おとなしくしていました。10分後にはいつものナルクンにもどっていましたが……。

また、ナルクンはお兄ちゃんが大好きなのですが、ライバル意識も強く、ちょっとからかわれただけで本気で向かっていきます。7歳も年が離れているので、どうやってもお兄ちゃんには勝てませんが。
お兄ちゃんから「もう、遊んであげないよ」「赤ちゃんみたい」と言われるのがいちばんいやで大泣きします。

元気いっぱいなナルクンですが、ときどきママが恋しくなるらしく、ママに言われた言葉を自分に言い聞かせるように言っています。

「ママはお仕事なの。お仕事忙しいの。おりこうにして待っててね」

昼寝させようとすると、ナルクンがたずねました。
「ママ、いつ来るの? 明日?」
「明後日よ」
「明後日っていつ?」
「明日の次の日」
「ねんねして起きたら、明後日になってる?」
「まだだけど、昼寝した方が早く明後日になるよ」
「じゃあ、ねんねんころする」
と言って口をチュクチュクしながら寝てしまいました。

ピノキオは、旧約聖書のヨナ書をもとにして書かれたお話です。
ヨナは神様の言葉を人々に伝える預言者でした。ヨナは神様からニネベに行って、このままではニネベが滅びてしまうので悔い改めるように人々に伝えなさいと言われました。(ニネベの人たちは神の教えに背いていました)ところが、ヨナは行きたくないのでニネベとは反対方向へ行く船に乗ってしまいました。

まもなく嵐になり、ヨナの乗った船は沈みそうになりました。ヨナは、自分が神様の言いつけに逆らったからこんな嵐になったのだと言い、海に放り投げてくれと船員に頼みます。ヨナが放り投げられたとたん、嵐はおさまりました。

ヨナがおぼれそうになったとき、神様は大きな魚を用意して、ヨナを呑み込ませ、あとから陸地へ吐き出させてくれました。
ヨナは魚のおなかの中で悔い改めのお祈りをしています。そして、陸地に上がってから、ニネベに行って、神様からの言葉を伝えました。
 
ピノキオも、おじいさんの言いつけに逆らって悪いことをしましたが、クジラのおなかの中でおじいさんと出会い、あやまりました。そして、最後は人間の子どもになったという結末です。


この次はヨナの話をナルクンにしてあげようかな。


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老いを受け入れる(その2)

2018-01-26 16:19:55 | 教会
健康志向の今、テレビを見ていると健康についての情報が大量に流れてきます。

健康にこだわるあまり情報におぼれ、それがすべてだと思ってしまう人がいます。
わたしも時々テレビで見ると、野菜食べなくちゃ、もっと運動しなくちゃと、その時だけ思いますが、次々と新しい情報が入ってきて、一週間もたつと忘れてしまいます。

以前、ブロッコリーを毎日食べていれば健康になれ、アンチエイジング、ダイエット効果もあると放送されるとスーパーのブロッコリーがあっという間に売り切れになったということがありましたね。

ブロッコリーを食べていると安心し、ブロッコリーを食べない日があると不安になる人がいたそうです。
それは、ブロッコリーに限らず、あらゆる食べ物がメディアで取り上げられると買いに走る人がいて、スーパーではテレビでとり上げられた食べ物をあらかじめ店頭に出して置くという現象も起きています。

それは『健康という病にかかっている』のだそうです。
健康に気をつかいすぎても、全く気をつかわなくてもだめですね。バランス良くありたいです。

人に誇れるぐらい健康な人でも、老いを止めることはできません。個人差はあっても、人は年齢と共にだんだん衰えていきます。

では、どうしたら老いと向き合うことができるのでしょう……。老いと向き合うには、人生の最盛期に考えるべきだと日野原氏は言われました。

「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。(伝道者の書12:1)」

自分はもう若くないから手遅れだと思わないでください。
今日があなたにとっていちばん若いのです。明日より今日が若いのです。

ポール・トゥルニエは人生を四季にたとえています。春夏秋冬それぞれの季節に生きるのは、それぞれの季節に人間としての必要があるからだそうです。
人生の冬を迎えたとき、その人が生涯やってきたことが問われます。衰えていく自分と向き合うことは、人生の宿題だと聞きました。

わたしは気持ち的には夏なのですが、冬の入口に立っていることを認めなければなりません。でも、体は衰えても心は生き生きとしていたいです。

「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。(Ⅱコリント人への手紙4:16)」わたしの好きな聖書の言葉です。

前回と今日のブログには、先週と今週の水曜礼拝のメッセージを受けて考えたことを記しました。
おわり


 
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老いを受け入れる(その1)

2018-01-24 20:08:42 | 教会
昨日、数年ぶりに雪が積もりました。

雪が積もって心をときめかせていたのは、いつまでだったのでしょう……。
最近は雪が降ると、どうか積もらないでほしい。道路が凍ると車で生活している息子たちはどんなに大変だろうと、
現実的なことを考え案じているわたしです。

土浦は数センチの雪だったので、車の走る道路は、ほとんど雪が消えていました。今日教会へ行ったのですが、自転車では危ないので歩いて行きました。
写真は今日撮ったものです。桜川の土手にはまだ雪が残っていました。
 
水曜礼拝では、「老い」についてのメッセージでした。
わたしは、ちょうど60歳になったとき、老いを身に沁みて感じました。
病院の待合室にいると、高齢者の方が「足が痛い」「腰が痛い」「肩が痛い」と嘆いている声が聞こえてきます。
以前わたしはそれを聞いて、嘆く言葉を言わない老人になりたいなと思いました。でも、実際に年をとって、体のあちこちが痛くなると、「痛い」と口には出さなくても、頭の中は『痛みを早く直したい、直すにはどうすればいいのか』と、そればかり考えています。

そもそも老化はいつから始まるのでしょう。医学的にみると20歳前から老化は始まっているそうです。
日野原重明氏が著書「老いを創める」の中で、マルティン・ブーバーの言葉『老いることはまた楽しからずや。ただし創めることを忘れさえしなければ。』を紹介しています。

老いを『始める』ではなく『創める』のです。創めることは、誰でもいつからでもできます。その人の年齢と生き方をどのようにとらえるか姿勢が問われるのだと聞いて、はっとさせられました。
               
                          つづく


上の写真は凍った水たまりです。不思議な絵が浮かび上がっています。



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生活費ぜんぶを捧げた女

2018-01-19 20:39:55 | 聖書から
今日は教会での家庭集会でした。新しい方も来られ、祝福あふれた集会になりました。

新約聖書ルカの福音書21:1~4には献金をする女の人のことが書かれています。

やもめ(未亡人)であるこの人は、生活費全部を捧げるのです。イエス様はじっと見ておられました。

イエス様は「みなは、あり余る中から献金を投げ入れたのに、この女は乏しい中から、持っていた生活費の全部を投げ入れたからです。(ルカ21:4)」と言って女の人をほめています。
そのあと、生活費がなくてその人はどうなったのか……と思いましたが、その後について聖書には何も書かれていません。

それより、生活費全部を捧げた女の人に注目したいと思います。当時のユダヤには福祉制度もなく、女性が働くことは許されなかったそうです。彼女は子育て中だったかもしれません。どうして生活費全部を捧げられたのでしょう……。

彼女は、そのあとの生活の心配はしないで喜んで捧げたようです。すべてのお金は神様から与えられたものだから、感謝して捧げたのだと聞いて、女の人の信仰に驚きました。

お金だけでなく、自分に与えられたものすべてが神から与えられたものとして受け止め、喜びを持って生きることの大切さを教えていただきました。


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人の評価は塵あくた

2018-01-17 16:06:25 | 教会
先日の日曜日は、年間聖句についてのメッセージを聞きました。

「うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。(ピリピ3:13-14)」

人は、何のために一生懸命努力するのでしょう……。
多くの人は自分のためと言います。家族や愛する人のためと言う人もいるでしょう。栄誉を得ると、自分が努力したからだと思って高慢になります。

パウロは神の栄冠を得るために、目標目ざして一心に走っていると言っています。人の栄冠は朽ちるものですが、神の栄冠は朽ちません。

パウロは人の評価でなく、神の評価を大切にしました。

パウロは家柄もよく、学歴もあり、ガマリエルの門下生であり、旧約聖書を学び、律法を守っていました。これらは人から高い評価を受けることでした。でも、キリストにあってそのようなことは、損と思うようになり、塵、あくた(ごみ、値打ちのないもの、汚いもの)のようだと言っています。

「塵、あくた」は、聖書の別訳ではガラクタ同然、廃物同然と記されています。
どんなに人から高い評価を得ていても、何の価値もありません。

「大切なのは神からの評価です。神の栄冠を得るためにへりくだって歩んでいきましょう。」と牧師先生が言われました。



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つながりました!

2018-01-16 20:27:10 | 日記
先週の土曜日は伯母の葬儀で東京まで出かけていました。朝早かったので、前日に都内の妹の家に泊まらせてもらいました。伯母は母のすぐ上の姉です。子どものころお世話になり、可愛がってもらいました。ご遺族の方々に平安と慰めがあるように祈っています。

昨年の暮れからネットのつながりが悪く、突然切れてしまうことが多くて不自由していました。原因はルーターだとわかって、今日家電量販店へ行きました。
買ってきたのはいいのですが、設定できるかどうか不安でした。
今までは息子か娘に頼んでいましたが、息子は仕事で忙しく、娘は遠方に住んでいて、とても頼める状態ではありません。

夫もネットがつながらないと困るからと、熱心にマニュアルを読んで設定しようとしています。でも、夫も私もパソコンの知識が少なく、「ああでもない」「こうでもない」と言いながら試行錯誤しています。マニュアル通りに画面が出てこないので、どうしようもありません。

何回やり直しても同じところでストップして、いっこうにつながりません。
行き詰ってしまいました。サポートセンターに依頼すると、メーカーの人が来てつなげてくれるそうですが、有料です。ただ祈るだけでした。

ためしにLenovoの小さなノートパソコンで設定してみると、つながりました。これはウインドウズ10です。(8だったのが勝手に10になったのです)いつものパソコン(ウインドウズ7)にもつながってバンザーイ!
3時間もかかりましたが、つながってくれて本当によかったです。



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今年の一字

2018-01-11 12:37:36 | ティーンズ
ネットのつながりが悪いので、原因を調べています。
今やっとつながったので、何とか更新したいと思います。

この前の日曜日、ティーンズでは書初めをしました。筆と墨で今年の抱負を漢字一字で書くのです。筆を持つのは何年ぶりでしょう。習字道具もどこへしまっているか見当たらないので、持っていけませんでしたが、借りて書きました。

「学」「新」「変」「挑」など色々な字が並びました。書いた人にひとことずつ書いた理由を話してもらいました。

わたしは「仕」。仕(つかえ)るの仕です。

なぜこの字にしたかというと、昨年の9月に横浜から来られたK牧師のメッセージが強く残っていたからです。

イエス様がもうすぐ十字架につけられるときのことです。イエス様は弟子たちひとりひとりの足を洗いました。当時足を洗うのは奴隷の仕事でした。それなのにイエス様は黙々と弟子たちの足を洗いました。

イエス様は人に仕えることが大切だと、行動を持って弟子たちに教えたのです。
イエス様はしもべとしての生涯、謙遜の生涯を歩まれました。

『イエス様のようになる』というのがわたしの人生の目標です。もちろんあまりにもかけ離れているので、口に出すのもはばかられますが……。

わたしに与えられている友、家族、孫たち、仲間たちに愛をもって仕えていけたらなあと思い、この字が浮かび上がりました。

「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。(マルコ10:43)」


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新年早々失敗・・・・・・

2018-01-04 11:45:56 | 家族
あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。

昨年29日から娘一家が、30日から息子一家が泊りがけで来て、1月2日には義母のところに行ってきました。
昨日は疲れて、いちにち寝ていました。今日の午後からまたヒックンがきます。

31日が日曜日だったので、日曜礼拝の翌日に元旦礼拝が行われました。何とかどちらも行きたいと思いましたが、難しいことでした。
家族全員で教会へ行くということがないので、時間的に難しいのです。

1日は、皆ゆっくり起きてきてお正月のあいさつをし、おせち料理とお雑煮を食べるというのが恒例になっています。

31日は娘が「お母さん、教会へ行くんでしょ。朝ご飯の用意はわたしがするから行ってきて」と言ってくれました。
31日の昼過ぎに娘たちは婿の実家に行ってしまったので、1日はどうなるかわからない状況です。あきらめるしかないかな。と思ったとき『なぜ元旦礼拝に行けるように祈らないのか』という心の中に語りかける声を感じ、はっとして祈りました。

すると10時ごろ皆起きてきて、皆が食べ終わって片付けが済んだのは11時でした。2回目の元旦礼拝は11時半からなので、なんとか間に合いそうです。

行く前にナルクンにかばんの中に新しいノートがあるのを見つかってしまいました。ナルクンが『ぼくお勉強するから、ちょうだい』とノートを指さして言いました。最近、お兄ちゃんが勉強するのを見て、ノートに絵を描くのをお勉強と言っているのです。

『ナルクンのノートはこっちね』と、別のノートを渡し、はっと時計を見ると11:19分。教会へは自転車で15分ぐらいかかります。

急いで出かけましたが、なんと、新年早々遅刻してしまいました。
普段は、8時半から始まる第一礼拝に出ているのですが、ほとんど遅刻したことがありません。それなのに元旦に遅刻とは……。こっそり礼拝堂に入りましたが、ほかに遅れてきた人がいなかったので、おそらく目立ったことでしょう。

「うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み(ピリピ3:13)」
元旦礼拝で語られた聖書の言葉に『遅刻したことを悔やんでばかりいないで、一歩を踏み出しなさい』と言われたような気がしました。
31日も1日も礼拝に出られたことを感謝します。


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一年を振り返って

2017-12-29 16:21:13 | 日記
今年も残り少なくなりました。
一年を振り返ってみると、今年は病院通いの年でした。1月から五十肩で整形外科のリハビリに半年通いました。ようやく五十肩がよくなってきたと思ったら、腰痛が起きました。

そのあと膝痛で、まずは左に装具をつけ、右も痛んできたので右にも装具を付けました。幸い装具をつけたらどちらも痛みが和らいできました。今は歩くときはほとんど痛みません。(あちこちの筋肉が弱っているみたいです。年のせいとは言いたくありませんが……)

先日は咳喘息になりましたが、これもほとんど癒されました。

家族のことで大きな変化は、娘の里帰り出産でした。7月に男の子が産まれました。陣痛から出産まで5時間というスピードお産。安産でした。

11月には義母が老人ホームへ入居しました。

創作活動は、カツオドリを主人公とした童話を連作で書き始めました。4月には夫と三宅島へいって、カツオドリを見てきました。

クリスチャン・ペンクラブでは、9月に65周年の祝会があり、あかし集「山川草木」を出版しました。

わたし自身の変化はCS(教会学校)小学科からティーンズへ異動になったことです。それは、思いもよらないことでした。神様がわたしをつかんで運び、新しいところに置いてくださったのです。

緊張して中高生にかける言葉もわからないままに始まりましたが、半分以上は小学科で担当してきた子どもたちです。小学科で蒔かれた種が、ティーンズになって花開いてきていることを見させていただいています。

行事としては、12月2日に父母の記念会を教会でしていただきました。妹一家、息子一家、娘一家、と夫。全員が集まりました。父と母の遺骨が教会の納骨堂に収めさせていただいたたことにより、このような機会が与えられたのです。

さて、来年はどのような年になるのでしょう? それは神様しかわかりませんね。
祈りつつ、内在してくださるお方をあかししていきたいと思います。

「わがたましいよ主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何ひとつ忘れるな。(詩編103:2)」

ブログを読んでくださっている皆様の新しい年のうえに主の祝福がありますようにお祈りします。来年もよろしくお願いいたします。


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与えられたいのち

2017-12-28 15:51:30 | 教会
3日間3歳のナルクン(孫)に振り回されてフラフラでした。
活発でよくしゃべり、よく泣き、よく食べ、ちょっと目を離すと、とんでもないことをしでかしているナルクンです。

7歳年上のお兄ちゃん(ヒックン)と何でも同じようにしたくて、できないとくやしがって泣きます。
穏やかな性格のお兄ちゃんと負けん気の強いナルクン。それぞれ違った賜物を持っています。
ふたりは、今日いったん家に帰って30日からまた来ます。

以前、ブログで紹介したひろくんが、ママと手をつないで教会にやってきました。5月に国内で心臓移植ができ、すっかり元気になりました。

アメリカで移植手術を受けるための3億1千万という途方もない額の必要経費が募金活動などによって与えられたことも奇跡でしたが、国内でドナーが与えられたこと、手術が成功したことが本当に大きな奇跡で、多くの人の喜びとなりました。

ドナーとなった子どものいのちは失われましたが、ひろくんのいのちは助けられました。
わたしたちのいのちを救うために十字架で死んでくださったイエス様の姿がオーバーラップされました。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子(みこ)を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:16)」

「あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。(エゼキエル36:26)」


今年のクリスマスのメッセージで語られた聖書の言葉です。



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