冬 本番3
今朝も結構冷えた。
寒さもピークなんでしょうが、今朝も冷えました。
昨日、午後から風が吹き続いて、寒さが身に応えるようになる。
幸いこのあたりは、雪が降っても現在のところ、朝、10cm(未満か)程度だから有難いことだ。
小・中学生時代全国でも知られる積雪量で名の知られている地域が、自分の故郷である。積雪量が増えてきた時の窓の破損を防ぐために、専用の板をはめていく。屋根から落とした雪が窓際にふえていくと、3枚~5枚などと、徐々に増やしていく。そして、2月の末ごろ~3月には窓からの明るさがなくなってしまい、外から帰ってくると家の中は暗闇。囲炉裏の火だけがチョロチョロと見えるだけになる。
朝、20cm以上の積雪があれば、早朝に起こされて、自分で作った藁製の長靴状の靴を履いてカンジキ蓑傘をつけて、自分の家に割り当てられた範囲、時には距離をしっかりと踏み固めてこなければならない。遅い時間ではだめだ。急用で出かける人もたまにはいるわけだから、さぼることは厳禁。忘れたは通用しない。そのために、薄い板に屋号(集落のそれぞれの)を書いた木の薄い板を短い竹の竿のぶら下げたものを、順に送っていく。いわば当番表だ。それが回ってきたら、緊張して翌朝を迎えて、夜明けに雪の量を見る。夜の間に基準以上の積雪があれば、藁靴、蓑カサ、に身を固めて両足を広げて、しっかりと踏み固めて決められた場所まで歩くのだった。
30分もかかればかなりの距離を踏める。敗戦後のこととはいえ、代用食(いくら自分の家が米を作っていてもお国のためだ。)誰も文句を言うような人はいない。
若くて元気な男衆はいないのだ。すべて赤紙一枚で何日以内に、どこそこの、分隊に集合しなくてはならない。
こんな時代だから、子供でも藁で作るる靴など、出来るようになった。そういう生活が敗戦まで続いた。学校でも国民学校で学ぶが、教科書がない。紙がない。先生がいない。胸には女性は白い布切れに自分の名前をきちんと書いて縫い付けていたし、古着にモンペ姿。今の人に当時の豪雪地帯の状態を説明しても、通じない時代になってしまった。女性は時々、竹槍訓練があった。(退役軍人が指導した)