アブソリュート・エゴ・レビュー

書籍、映画、音楽、その他もろもろの極私的レビュー。未見の人の参考になればいいなあ。

遊戯の終わり

2011-06-01 23:00:53 | 
『遊戯の終わり』 フリオ・コルタサル   ☆☆☆☆

 再読。コルタサルはアルゼンチンの作家で、マルケスやリョサと並ぶメジャー級のラテンアメリカの作家である。が、マルケスやリョサと違って、この人は短篇作家の印象が強い。『石蹴り遊び』という有名な長編も書いていて私は未読なので偉そうなことは言えないが、短篇集を読むとこの人の長編というのはどうも想像しにくい。いかにも短篇作家然としている。ポーの影響が強いのもそうだし、はっきりしたアイデアにもとづいて直線的にプロットを展開していく手法もそうだ。

 この『遊戯の終わり』は初期の短篇集だが、コルタサルらしさはすでに全開である。収録作品は以下の通り。

「続いている公園」
「誰も悪くはない」
「河」
「殺虫剤」
「いまいましいドア」
「バッカスの巫女たち」
「キクラデス島の偶像」
「黄色い花」
「夕食会」
「楽隊」
「旧友」
「動機」
「牡牛」
「水底譚」
「昼食のあと」
「山椒魚」
「夜、あおむけにされて」
「遊戯の終わり」

 コルタサルの短篇は常に不安と翳りが基調のトーンとなっている。ポー的だが、ポーほどの象徴性、硬質な夢魔の域には達していないように思う。コルタサルを絶賛する人は多く、たとえば筒井康隆は本書に「この短篇集はまさにぼくの当時の文学的思考を実現させたものだった。短篇のそれぞれがぼくの考えのそれぞれを表現していた。それまでの小説にはない奇妙な考え、しかもぼくと同じ考えを持っている南米の作家の存在はぼくを驚かせた」(『漂流 本から本へ』)と最上級の評価を呈しているが、前に『遠い女』のところでも書いた通り、私の中でコルタサルはマルケス、リョサ、ボルヘス、フエンテスなどと比べるとちょっと落ちてしまう。ポーのような絢爛たる象徴性に欠けること、プロットに大きく依存していること、またプロットのひねりにある種のパターンが感じられることなどがその理由だ。ミイラ取りがミイラになる、というような話が多いのである。

 とはいってもそれはあくまでボルヘスやポーなどの特A級の天才たちと比べた場合であって、コルタサルの独特の奇想と翳りの魅力は否定しない。この短篇集を最初に読んだ時も「なんだかヘンな短篇を書く作家だな」と思ったものだ(いい意味で)。

 本書にはコルタサル本領発揮の幻想譚だけでなく、子供の心理を描いた短篇もあり、ボクサーの独白なんかもある。なかなかバラエティに富んでいて飽きさせない。文章は改行が少なく、滔々たる語りで流れるように進んでいく。

 今回読み返して印象的だったのは「バッカスの巫女たち」「牡牛」「夜、あおむけにされて」「遊戯の終わり」あたりだろうか。多分いかにもコルタサルらしいのは「キクラデス島の偶像」「山椒魚」などだろうが、例の「ミイラ取りがミイラになる」パターンが想定の範囲内で逆に驚きがない。「どんでん返し」的なのである。それに比べて「バッカスの巫女たち」はこのあっけらかんとした残酷とストレートなプロット進行がいかにも奇怪で、まるで夢の中にいる気分を味わえる。私にとってコルタサルを読む醍醐味はこれだ。

 「牡牛」は延々続くボクサーの独白で、「遊戯の終わり」は子供時代のイノセンスを描き出したもの。子供が主人公の作品は他に「殺虫剤」「昼食のあと」があるが、どれもノスタルジーと苦さがミックスされていて一筋縄ではいかない。「夜、あおむけにされて」はいかにもコルタサルらしい不気味な幻想譚だが、残酷性と奇妙なプロットがどことなくマンディアルグ的で、硬質な美しさのある作品だと思う。



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