『真夜中に海がやってきた』 スティーヴ・エリクソン ☆☆☆☆☆
これはエリクソンが『アムニジアスコープ』の後に発表した長編小説である。いつもの混沌としたエリクソンの世界には違いないが、『黒い時計の旅』あたりで特徴的だったノワール映画的な暴力的な要素は後退し、瞑想的で儚げなムードが全体を覆っている。スナッフ・ビデオ(つまり本物の殺人を映したビデオ)のエピソードなどは出てくるものの、むしろその後の(製作にかかわった)ルイーズの悔恨、悼みの感情などの方に力点が置かれている。ルイーズは若い女優マリーを虐待した記憶に苦しめられ、贖罪行為を続けるのである。
それから語り口はますますクールになり、文体は感覚的になり、視点は俯瞰的になっている。物語の細部はズームアウトし、作者のナレーションは登場人物の行動をより簡潔に要約して読者に伝達する。つまり映画のような「場面」というものが減少していて、ところどころではマルケスの『百年の孤独』の語り口に似た印象を受ける。
ストーリーは従来のエリクソン方式で、何らかの絆で結ばれた男女の物語が交代しながら語られる。歌舞伎町のメモリー・ホテルで働く少女クリスティン、名無しの男性「居住者」、「居住者」の運命の女アンジー、スナッフ映画の製作者ルイーズ。主人公のスライドは唐突に起きる。作者は気ままに、ある人生から他の人生へと飛び移る。人称も一定ではなく、一人称と三人称が混在している。そして主人公たちの人生は無数の点で繋がっていて、あり得ない偶然によってふいに交錯する。神秘的かつ黙示録的な、混沌としたエリクソンの世界だ。
エリクソンのトレードマークである妄想力の産物としては今回、風俗嬢が記憶を売る歌舞伎町のメモリー・ホテル、そして「居住者」が作成するアポカリプス・カレンダーなどが登場する。特にアポカリプス・カレンダーは世界中のあらゆる黙示録的な事件を網羅したカレンダーで、日本のサリン事件や阪神大震災も含まれ、その日付が女たちの体に刺青で彫られて識別子となっているなど、物語の中心的ガジェットとして機能している。
また、今回は東京が舞台になっていると聞いて興味津々だったのだが、実際はプロローグ部分とエピローグ部分だけだった。しかしながら、終盤エリクソンの文体によって描き出される幻想的な東京の光景はまったく素晴らしい。それは現実には存在しない東京、幻覚的なきらめきに包まれた虚空のメトロポリスである。
それからちょっとしたディテールであるにもかからわず妙に印象に残っているのが、シュール・レ・バトーという小さな村。この村の名前は「船の上」という意味だが、この村では家が船のパーツで作られていて、かつて一度だけ画家のピサロが泊まったということで、ピサロの名がついた場所がたくさんある。そして、その後描かれたピサロの絵には、この村特有の光が溢れているという。
幻視者エリクソンの幻視者たる資質の、またしても雄弁な証左。
これはエリクソンが『アムニジアスコープ』の後に発表した長編小説である。いつもの混沌としたエリクソンの世界には違いないが、『黒い時計の旅』あたりで特徴的だったノワール映画的な暴力的な要素は後退し、瞑想的で儚げなムードが全体を覆っている。スナッフ・ビデオ(つまり本物の殺人を映したビデオ)のエピソードなどは出てくるものの、むしろその後の(製作にかかわった)ルイーズの悔恨、悼みの感情などの方に力点が置かれている。ルイーズは若い女優マリーを虐待した記憶に苦しめられ、贖罪行為を続けるのである。
それから語り口はますますクールになり、文体は感覚的になり、視点は俯瞰的になっている。物語の細部はズームアウトし、作者のナレーションは登場人物の行動をより簡潔に要約して読者に伝達する。つまり映画のような「場面」というものが減少していて、ところどころではマルケスの『百年の孤独』の語り口に似た印象を受ける。
ストーリーは従来のエリクソン方式で、何らかの絆で結ばれた男女の物語が交代しながら語られる。歌舞伎町のメモリー・ホテルで働く少女クリスティン、名無しの男性「居住者」、「居住者」の運命の女アンジー、スナッフ映画の製作者ルイーズ。主人公のスライドは唐突に起きる。作者は気ままに、ある人生から他の人生へと飛び移る。人称も一定ではなく、一人称と三人称が混在している。そして主人公たちの人生は無数の点で繋がっていて、あり得ない偶然によってふいに交錯する。神秘的かつ黙示録的な、混沌としたエリクソンの世界だ。
エリクソンのトレードマークである妄想力の産物としては今回、風俗嬢が記憶を売る歌舞伎町のメモリー・ホテル、そして「居住者」が作成するアポカリプス・カレンダーなどが登場する。特にアポカリプス・カレンダーは世界中のあらゆる黙示録的な事件を網羅したカレンダーで、日本のサリン事件や阪神大震災も含まれ、その日付が女たちの体に刺青で彫られて識別子となっているなど、物語の中心的ガジェットとして機能している。
また、今回は東京が舞台になっていると聞いて興味津々だったのだが、実際はプロローグ部分とエピローグ部分だけだった。しかしながら、終盤エリクソンの文体によって描き出される幻想的な東京の光景はまったく素晴らしい。それは現実には存在しない東京、幻覚的なきらめきに包まれた虚空のメトロポリスである。
それからちょっとしたディテールであるにもかからわず妙に印象に残っているのが、シュール・レ・バトーという小さな村。この村の名前は「船の上」という意味だが、この村では家が船のパーツで作られていて、かつて一度だけ画家のピサロが泊まったということで、ピサロの名がついた場所がたくさんある。そして、その後描かれたピサロの絵には、この村特有の光が溢れているという。
幻視者エリクソンの幻視者たる資質の、またしても雄弁な証左。
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