アブソリュート・エゴ・レビュー

書籍、映画、音楽、その他もろもろの極私的レビュー。未見の人の参考になればいいなあ。

審判 (その2)

2009-02-08 22:11:12 | 
(昨日の続き)

 この『審判』はカフカが残した三つの長編の一つだが、コンパクトにまとまっていて結末もちゃんとあり、カフカ世界のエッセンスを手っ取り早く味わうには一番適している作品だと思う。ヨーゼフ・Kはある朝わけも分からず逮捕され、裁判所に行ったり弁護士と会ったり色々手を打とうとするが空しく、一年後にやってきた二人の役人の処刑されてしまう。簡単にいうとそれだけの話だ。非常に分かりやすい構成になっている。しかしその内容はというと、とても一筋縄ではいかない。

 まず異常なのは、結局Kの罪は何なのか最後まで分からない、ということだ。それは決して知らされない、というか誰も知らないようであるし、それに裁判所やまわりの人々、ひいてはK自身含めあまり重要視していない様子なのである。それからKは決して彼自身の罪を決定する場、議論する場にたどり着けない。それどころか出発点にもたどり着けない。作中、裁判所にかかわる絵描きがKに「外見上の無罪宣告」や「引延ばし」という戦術について延々と説明するくだりがあるが、要するに裁判手続きはあまりに複雑で錯綜しているために、絶対に無罪にはなれず、無罪を追求する方法すらないのである。

 本書においても、カフカ文学の特徴である夢幻性は最初から最後まで濃厚だ。逮捕されてもKは牢に入れられるわけでもなく、それまで通り日常生活を続行し、銀行に出勤できる。裁判所は貧乏アパートの中にあり、事務所は屋根裏部屋にある。ひときわ夢幻性が強烈なのは、銀行の物置部屋の扉をあけるとKを逮捕に来た役人二人が、蝋燭の光の中で笞刑に処せられている場面だ。二人はKに泣きつくが、Kは逃げ出す。しかも次の日に同じ扉を開けると、まだ連中はそこにいて「ああ、あんた!」などと呼びかけてくるのである。

 この場面は異様にシュールだが、同時にコミカルでもある。カフカはテーマの重さや不安なムードからシリアスに受け取られがちだが、実はそのディテールはかなりコミカルである。今回読み返して特に印象的だったのはそれだ。カフカの登場人物にはみんなどこかしら滑稽なところがある。Kに対していやに卑屈なグルゥバッハ夫人や、Kの足をすくおうと画策している銀行の支店長代理、身体が悪い弁護士、画家、叔父、誰もがどこかおかしい。一番笑えるのは弁護士の家で会うブロックで、彼は弁護士の呼び出しにいつでも応じられるように弁護士の家に寝泊りしている。弁護士はKに自分の価値を見せようとしてブロックを侮辱的に扱い、ブロックはありえないほど卑屈に振舞う。Kはそれを見物する。そしてこの奇怪な場面の間中、弁護士は自分のベッドに横たわっているのである。この章はめまいがするほど戦慄的で、唖然とするような展開も最高に面白いが、惜しいことに未完となっている(章そのものが途中で切れているのである)。実に残念だ。あれからどう展開する予定だったのだろうか。ブロックはこの章にしか出てこない。

 そして何と行っても最後の場面。Kは二人連れの男に連れ出され、あちこち歩き回ったあげく、石切場で殺される。Kは両手をあげ、指をことごとく広げる。そして息絶えていくKの顔を、二人の処刑人がじっと覗き込んでいる。凄まじい迫力だ。カフカが描く場面はすべてが独創的で、紋切り型は何一つない。つねに強烈な夢幻性と、目を疑う意外性、そして心臓がどきどきするような切迫感をみなぎらせている。

 カフカの小説は夢に似ている。もちろん現実離れしたことが起きるという意味でもそうだが、夢の中ではすべてが何かの表象であるように、カフカの世界の出来事にも常に何かの表象であるという感じがつきまとっている。にもかかわらず、それを見極めることは決してできない。これがカフカ文学の謎である。それはありきたりの小説のように分かりやすい寓意ではなく、もちろん風刺やパロディでもない。もし何かの表象だとすれば、それは無意識の深み、あるいはユングの言う集合的無意識の深淵の中にひそむ何かの表象であるに違いない。そうでなければ、これほど現実離れした光景がこれほど意味ありげに、奇妙に親しく、そして必然的に思えるはずがないと思うのだが、どうだろうか。

 しかしカフカの小説は決して寓意や実存的状況だとかいったものにばかり価値があるわけではない。そのディテールの豊富さ、奇妙さ、そして意表をつく美しさは誰の追随も許さない。たとえば弁護士の家で出会うレーニという女がKに言い寄る時、彼女はKに「何か身体に片輪のところあるの?」と聞く。そして自分の手を見せるが、中指と薬指の間に水かき状の皮膜がある。確か渋澤龍彦がエッセーでこの場面に触れていたが、この描写はここにしか出てこず、物語との関係も一切ない。だからこそ余計に印象的、みたいなことを書いていた。こういう魅力的なディテールは他にもたくさんある。

 ところで巻末に、本編に使われなかった未完の断片がいくつか収録されているが、ハステラー検事とのエピソードや支店長代理との闘いなどはかなり面白い。もっと書き足して長くして欲しかった、というのは贅沢というものなんだろうな。


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