アブソリュート・エゴ・レビュー

書籍、映画、音楽、その他もろもろの極私的レビュー。未見の人の参考になればいいなあ。

イノセンス

2005-07-18 05:57:12 | アニメ
『イノセンス』 押井守監督   ☆☆☆★

 DVDを購入して鑑賞。公開時に映画館で観たので二度目だ。最初に観た時は完全に失敗作だと思ったが、今回見直してみるとわりと良かった。初めて観た時と違って期待がなかったこと、欠点に対して心構えが出来ていたこと、それから家のモニターで観るとサイズが小さいので映像の美麗さがより際立って見えること、などが理由だと思う。

 とにかく、映像の美麗さは素晴らしい。音楽も素晴らしい。押井守という人は本当にこういうセンスがある人で、何がかっこいいかという美意識をすごく明確に確立しているし、またその美意識にとことんこだわっていく神経質さというか、完全主義的な姿勢もアーティストとして尊敬に値すると思う。その美意識というのは必ずしも押井守オリジナルではなく、色んな過去の芸術から学び吸収したものかも知れないが、それをここまで自分の映画として咀嚼し、形にしてしまうのはやはり才能だと思う。
 あえていえばところどころCGと手書きの絵がうまく溶け込んでいないと感じるところがあった。それがなければ完璧だったと思う。まあそういうのは今後、技術的にも改善されていくのだろう。

 ところでDVD特典のメイキングや対談でも感じたのだが、やはり押井監督は評論家的というか批評家的な頭の良さがある人である。分析的で、緻密だ。やみがたい衝動に駆られて得体の知れないものを生み出してしまうというより、既存の芸術や現代社会の状況に批評家的に向き合い、分析し、興味ある要素を抽出し、それらを組み合わせ応用してマニアックな作品に仕立て上げる人のようだ。

 誰だってすぐに気づくことだが、この映画はとにかく色んな芸術作品からの引用が満載されている。冒頭の引用はリラダン『未来のイヴ』、ガイノイドの名称ハダリも『未来のイヴ』、ロクス・ソルス社はルーセルの『ロクス・ソルス』、オープニング含め少女人形の造形はハンス・ベルメール、殺された技師の上でバトーが写真を見つける本もベルメール、キムが喋る神と人形の動物の優美さの話はクライスト『マリオネット芝居』、という具合だ。会話の中での引用はミルトンやら聖書やら数え切れない。
 押井監督のバックグラウンドがよく分かってなかなか面白いし、ハダリやロクス・ソルスという名詞の借用はオマージュとして全然悪くないと思う。嫌いじゃない。しかし、あのセリフの引用大会はどうにかならなかったのか。止めて欲しかった。観念的過ぎるし、引用のやり方が不親切で意味が分かりにくい。なんと言っても映画としてダサイ、カッコ悪い。
 意味が分からないのは頭が悪いからだと言われそうだが、そうじゃなくて引用のやり方が下手なのである。例えばキムの喋りの中でまるまるクライストからの引用があり、私はクライストのこの文章が非常に好きなのだが、あの引用のやり方でクライストの言いたかったことが理解できる人がいたらお目にかかりたい。優美さは完璧な意識か無意識のうちに宿り、知恵の実を口にした人間からは奪われている、というくだりである。本来はとてもエレガントで詩的なアイデアなのだが、あの引用では堅苦しく、生硬で、干からびて、性急で、わざと煙に巻こうとするかのような衒学臭がぷんぷんである。台無しだ。

 私は、押井監督の魅力は音や映像への偏執狂的なこだわりと美意識だと思うのだが、本人はどういうわけか観念とか思弁というものが非常に好きなようだ。DVD特典の対談でも、観念ばかりとか感情が描けないとか色々言われていて、本人もそれでどこが悪いと居直っていた。しかし私は押井監督の観念性というものはあまり評価しない。あの見事な映像センスに比べて、押井監督の観念性は不器用でダサいと思うのである。頭がいい人なのは間違いない、ただその観念の出し方というか、見せ方の問題だ。はっきり言うと、やっぱりオタク臭がするのだ。オタクで何が悪い、という議論もあると思うが、オタクがどうしてもネガティヴに語られてしまうのはバランスの悪さだと思う。
 まず引用のしかたがさっき書いたように下手で、原文の魅力がまったく伝わらない。あまりにも機械的な、表面的な引用だ。それから押井監督得意の、というかそれしかないのかと言いたくなるテーマ、現実と擬似現実の境界、人間と間の境界、これがどうも駄目だ。いや、テーマ自体は良い、フィリップ・K・ディックは大好きだ。しかし押井監督がやると駄目だ。なぜかという理由はなかなか説明が難しいが、まずサイボーグやネットという装置が安直だと思う。それから、必ず登場人物がセリフで説明してしまうのが最悪。しかも、やたら説明臭いセリフで。
 
 他にも、例えば白髪のおばさんがやたら哲学的な議論を吹っかけてくるところで、人間が赤ん坊を育てるのは人造人間への憧れのためとか、子供が人形でままごとをするのは育児のレッスンではないとかいうセリフがある。こういうのもどうも子供っぽく、幼稚に感じてしまう。説明的すぎるのだ。レトリックでごまかそうとしている部分がある。なんとかしてベルメールやルーセルのあの倒錯した美に接近したい、とがんばっているのが伝わってきて、逆に白けてしまう。押井監督は非常にまともな人であって、ディックやルーセルやベルメールのように、異様な現実感覚や人形嗜好を自分の体質としては持ち合わせてはいないのだ。持ち合わせていないから憧れる。

 押井監督の映画から見事なビジュアルセンスを消し去り、生硬な観念性だけを残したら、ものすごい駄作になると思う。逆にあのビジュアルはそのままに、説明臭い観念性を消し去ったらもっと傑作になると思う。

 DVD特典で押井監督とジブリの鈴木氏が対談していて、その中で押井監督の宮崎駿批判が出てきてなかなか面白い。それについても書きたいので、次回に続く。

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