アブソリュート・エゴ・レビュー

書籍、映画、音楽、その他もろもろの極私的レビュー。未見の人の参考になればいいなあ。

イノセンス(その2)

2005-07-19 13:32:04 | アニメ
 昨日の続き。

 『イノセンス』のDVD特典で押井守監督とジブリの鈴木敏夫が対談していて、なかなか面白い。押井守監督が宮崎駿の批判をしている。

 簡単に言うと、宮崎駿はキャラクターの喜怒哀楽を通して何事かを語ろうとするが、押井監督はそれは危ういと考える。なので感情のない人間達の映画といわれるものができる。それの何が悪いんだ、と監督は言う。
 それからまた、最近のアニメーターは人間の動きをちゃんと描けないと宮崎駿がこぼしていると鈴木氏が紹介したら、そんなことは当たり前だ、今さら何言ってるんだ、と言う。現代の人間は身体性というものをとうに失っている、人間の蓋があいて中身がどぼどぼこぼれれているんだ。そんな時に、昔の健やかな身体性を取り戻しましょうったって、それは「昔は良かった」人間の言い草であって、何の有効性もない。そこには何も見えてこない。自分は、身体性を失ってしまった人間ならその人間なりのあり方というものがあると信じている、だからネットと融合する女の映画(=『攻殻機動隊』)を作ったんだ。

 正確ではないが大体こんな感じである。それからまた、犬と人形というのが『イノセンス』の重要なキーワードであることが良く分かる。押井監督によれば、身体性を失ってしまった人間が外部に持ち得る「身体」が犬(=動物)であり、また人形である。
 この話は相当面白い。それにまた、押井守監督がやはり観念的に理論を展開していく思考者であることが分かるように思う。

 確かに、宮崎駿と押井守の作り出す映画は実に対照的だ。キャラクターの喜怒哀楽と的確な身体性の表現で観客をひきつける宮崎駿に対し、押井守は感情を排除し、観念性とバーチャルな世界の迷宮に観客を引き込もうとする。
 感情を排除するという押井監督の主張は良く分かる。『イノセンス』の中であからさまに提示されている彼のバックグラウンド、リラダンやらベルメールやらの顔ぶれを見れば一目瞭然だ。彼の考える美とは感情を越えたところにあるのだ。これは私も共感する。しかし、宮崎駿監督の映画だって決して喜怒哀楽だけで表現し尽くされるようなセンチメンタルな物ではないのである。あの暴発するイマジネーションの凄さを見よ。宮崎駿のキャラクターの健やかな感情表現は物語の牽引力であり、観客を映画のうちに取り込む鳥もちの役割を果たしているのであって、宮崎映画の美しさの核心はそこにはない。
 喜怒哀楽を牽引力とするのがもういかん、と押井監督は言うかも知れないが、そこまで行くと趣味の問題と言うしかない。登場人物への感情移入が物語を生き生きさせ、面白くするのは当たり前の話だ。

 それから押井監督の、宮崎駿は「昔は良かった」人間だという批判だが、これもそう簡単だろうかという気がする。押井監督は、人間は昔の方が良かったという考えに傾きやすいんだ、だから安直なんだというが、だから否定するというのも同じくらい安直なのではないか。回帰の可能性というものはないのか。
 押井監督は、身体を失ったなら失ったなりの人間のあり方があるはずだ、と言い、それを自分でも「根拠のない妄想」と呼んでいる。つまりこれは信念というか信仰みたいなものだろう。これを聞くと押井監督は基本的には楽観主義者なんだなと思う。人間がいつか滅びていくとしたらこれが滅びの前兆かも知れない、確実な衰退の過程かもしれないわけで、そこに新しい人間のあり方なんてないかも知れない。
 大体、私は身体性を失ってしまった人間に、生き物としての未来があるかどうか疑わしいと思う。ネットや情報の中だけで育った人間は危うい気がするし、子供の頃に泥まみれになって遊ぶことが人間には大切なんじゃないかと思う。でないと肝心な部分が抜け落ちて、簡単にカルト宗教に絡めとられたり、キレて教師を刺したり、少女殺人を犯したりしそうな気がするのである。
 これはロジックではなく直観である。ロジックには限界があると思う。そして、私はそこになんとなくではあるが、押井守監督の限界もあるような気がするのである。

 宮崎駿監督の映画は確かにもはやノスタルジーかも知れない。まあ、一部の若いアニメーターが身体性を失っているからといって、それが現代人すべての姿だと敷衍してしまうのもロジックの暴走だと思うが、そういう傾向はあるということにしておく。しかし、「だから山登りしましょう、外で走り回りましょう、じゃ駄目だろう」と押井監督は言うが、ひょっとしたら外で走り回ることで変わるものがあるかも知れない、と私なんか思ってしまう。そりゃ変わらないかも知れない。しかしそれは、健康のために自然食を心がけている人間を見て、「どうせ原始時代に逆戻りできなんだからそんなことしても無駄だよ」と嘲笑する人の、うさんくさいニヒリズムを感じる。少なくとも子供にとっては、外へ出て走り回るというのは無駄ではないと思う。

 つまり、私は宮崎駿の方が押井守の上を行っていると思う。宮崎駿の映画の方が人間の本質を突いていると思う。押井守の観念は分かる、そのロジックも分かる、しかしそこには観念の世界に入り込んだ人間の危うさを、つまりはオタク性を感じる。

 押井守が若いアニメーターに不平を言う宮崎駿に苛立つのは当然だ。彼もその「若いアニメーター」側の人間だからだ。アニメという、あるいは過去の芸術というバーチャルな世界で培われた感性を拠り所にしている。その一方で宮崎駿は、自分の体で外を走り回った感性が、自分の中にきっちりセットされている人のような気がする。

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