アブソリュート・エゴ・レビュー

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紅の豚

2014-09-18 23:30:15 | アニメ
『紅の豚』 宮崎駿監督   ☆☆☆☆★

 宮崎駿監督の『紅の豚』の日本版ブルーレイを購入して再見。『天空の城ラピュタ』をブルーレイに買い換えたところかなり画質が向上していて非常に良かったので、味をしめて『紅の豚』も入手した。

 個人的には結構気に入っているこの『紅の豚』、物語ははっきりいって小粒である。主人公のマルコは人間なのになぜか豚に変身したパイロットで、ファシズムが蔓延するイタリアとイタリア空軍に嫌気がさし、今は空賊(海賊の飛行機版)を捕まえる賞金稼ぎで食っている。ストーリーは、空賊が雇ったアメリカ人パイロットのカーチスにマルコが一旦撃墜され、ミラノに行って愛機を修理し、また戻って来てリターンマッチをするという、まあ要するにそれだけの話だ。そこに死んだ親友の妻ジーナとの大人の恋愛模様、まっすぐで元気いっぱいな修理工の少女フィオなどが絡んでくる。『ナウシカ』や『ラピュタ』や『もののけ姫』あたりと比べると、スケール感には欠ける。クライマックスの盛り上がりも大したことなく、カーチスとマルコが殴りあって終わりだし、ファシストの戦闘機とマルコが最後に激突するというようなこともない。

 しかし本作が宮崎駿作品としてユニークなのは、基本的に子供向けでなく大人向けのアニメということである。『風立ちぬ』ももちろんそうだが、文芸モノの香り濃厚な『風立ちぬ』に対して、『紅の豚』は宮崎駿王道の明朗闊達な冒険ファンタジーにして大人向け、というところが違う。主人公は少女でも少年でもなく大人の男、どころか渋いオジサンである。おまけにルックスは豚。美少年や美青年の「萌え」路線とは対極にある。マルコは間違いなく男のダンディズムを体現する存在であり、このような存在を宮崎駿が映画の中心人物として創造したのは後にも先にもこれだけだ。

 もちろん、いつもの宮崎アニメのヒロインを思わせる少女フィオも登場する。しかしフィオの視線の先にはマルコがいる。いつもの、ヒーローの視線の先にヒロインの少女がいる構図とは異なる。そしてマルコの相手役はフィオではなく、ジーナという大人の女性なのである。この、マルコ-ジーナのカップルが生み出す大人の情緒と、フィオという少女の感性がクロスする緊張感もまた『紅の豚』ならではだ。

 こういう『紅の豚』であるからして、まずはマルコの大人の男としてのダンディスム、そしてマルコやジーナの人生の陰影に満ちたありようがみどころだ。マルコが豚になった経緯はよく分からないが、「ファシストになるくらいなら豚になった方がマシだ」とうそぶくマルコにしびれない男はいないだろう。かつ、誰からもタフガイと見られているマルコだが、実は誰よりも繊細な心根を持っている。彼はジーナを愛していながら、死んだ親友の妻ということでそれを決して口に出さない。そして戦友だった友が空の戦闘で死ぬ時には、その辛さに耐えられず自分が身代わりになろうとすらする。この話は夜、フィオにせがまれて淡々と語られるが、その時観客はマルコがなぜ人間を止めて豚になったかをおぼろげながら理解する。空賊を震え上がらせ、美しい女たちを虜にし、戦争は人間同士で勝手にやってろとお気楽に生きているように見えるマルコは、耐え難いほどの哀しみを数多く見てきた男なのである。

 マルコとジーナの大人の、しかし不器用な愛も胸を打つ。じゃあ「大人の愛」って何だという話だけれども、色んなことを経験してきた彼らはもう、人生の出来事一つ一つにストレートに一喜一憂することはない。言っても仕方がないことは受け入れる、それを呑み込んで生きていく。が、その痛みを知らないわけじゃない。この映画の中ではいくつか悲しいことも起きるが、そういう場面で宮崎駿監督は絶対に悲しさを押し付けない。ジーナがマルコに夫の死を知らせる場面、あるいはマルコがフィオに親友の死を語る場面。穏やかで淡々とした口調の中に、長い人生を生きてきた男の、あるいは女の奥行きが滲む。

 そしてマルコとジーナの、長い歳月と複雑な経緯を秘めた愛の美しさ。激しさや直截さでは他の宮崎駿作品に負けるかも知れないが、深さではこれがナンバーワンだ。この映画には名場面がいくつかあるが、マルコがジーナ邸の空で旋回飛行して見せる場面はその一つ。ジーナは、いつかマルコがこの場所にいる自分を訪ねてきてくれることを望んでいる。彼は来ない。が、この時マルコはジーナに見せるために旋回飛行をして見せる。それを眺めるジーナの脳裏に、一瞬、かつて二人が子供だった頃の思い出が蘇る。彼女はマルコと一緒にいて、二人は笑っている。無邪気に、それからの人生で二人を待ち受けているものを知らず、ただ生きる喜びに満ちて。

 マルコがフィオに語って聞かせる親友の死も名場面の一つだが、ここはこの基本的に陽性の映画の中で静謐感と幻想性が異様に突出した、ガラス細工の如く透き通った場面である。マルコは白い雲の上で、戦死した飛行機乗りたちが空の高みに昇っていくのを見る。空の高いところを、リボン状になった飛行機の群れが音もなく渡っていく。それらの一つ一つはすべて、戦いで撃墜された飛行機であり飛行機乗りたちである。その中に入っていこうとする親友を見て、ベルリーニ、ジーナをどうする気だ、おれが代わりに行く、とマルコは叫ぶが、彼だけが取り残される。お前はずっとそうして一人で飛んでいろと神様に言われた気がした、とマルコはフィオに言う。映画を観終わった後まで、哀しさと美しさで憑依する映像である。

 そしてこれら「過去」の深みと哀しみに対し、フィオの「未来」への希望と信頼が配置される。フィオは底抜けに明るく、まっすぐで、何事にも物怖じしない、典型的な宮崎駿的少女である。彼女はマルコとともに空に飛び出した時に叫ぶ。「世界ってきれい!」どんなに世界が不幸に満ちていても、彼女は前向きであることを止めない。そして過去がマルコにかけた魔法を解いたのも、彼女のこの明るさと希望だった。

 楽しい場面という意味では、冒頭の少女誘拐のエピソードが最高。空賊が幼稚園の少女たちを誘拐し、マルコがそれを助けるのだが、まったく怯えることなく傍若無人に、好き放題に振舞う少女たちがおかし過ぎる。空賊もマルコも、この少女たちには手も足も出ない。
 
 『紅の豚』はスケール感に欠けるストーリーと、劇的な場面や泣かせどころに欠ける(あるいはあえて排除してある)作劇から、一見地味で小粒な作品に見えるが、実はとても奥が深い。分かりやすく盛り上げてはみせないけれども、その気になればどこまでも読み込めるしたたかな脚本だ。感情の深みという点では、宮崎駿作品の中でもピカイチではないかと思う。マルコが体現する男のダンディスムがクサい、と思う人がいるかも知れないが、これを「豚」でやったところがいいのである。多少クサくても、そんなものはあらかじめ笑い飛ばされている。大体、他の誰が豚を主人公にしてダンディスムを描こうとするだろうか。

 蛇足ながら、映画はマルコとジーナがその後どうなるか明示しないまま終わってしまう。フィオのナレーションが「ジーナさんの賭けがどうなったかは、私達だけの秘密」と口をつぐんでしまうからである。こういうところからも、この映画では意図的にドラマティックな要素を省こうとしているのかと勘ぐってしまうのだが、その答えは実は、ラストシーンの映像の中にちゃんとある。気になる人はチェックしてみてはいかがでしょう。



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