アブソリュート・エゴ・レビュー

書籍、映画、音楽、その他もろもろの極私的レビュー。未見の人の参考になればいいなあ。

風立ちぬ

2014-09-01 20:04:05 | アニメ
『風立ちぬ』 宮崎駿監督   ☆☆☆☆☆

 宮崎駿監督の最終長編アニメとなった『風立ちぬ』を日本語DVDで鑑賞。宮崎駿のアニメとなればアメリカでも映画館で上映するわけで、私も一応鑑賞済みだったが、英語吹き替えではないオリジナル・バージョンを観たのは今回初めてだ。

 いやー、堪能した。素晴らしい。宮崎駿渾身の力作であり、文句なく大傑作である。とりあえず映像があまりにも素晴らしい。信じがたい風、空、雲の描写、そして宮崎駿のこだわりが炸裂するあらゆる「動き」のダイナミズム。これほどのものを見せてもられえばそれだけで満足、というレベルだった。加えて、美しいシークエンスの数々。二郎が見る夢の場面。二郎と菜穂子が高原で再会する場面。二郎と菜穂子の結婚式の場面。飛行機が飛ぶ場面。そして、ラストシーン。どれもこれも限りなく夢幻的で、かなしいほどに美しい。それに、あのユニークきわまりない地震の表現にも驚いた。

 物語はこれまでほとんどの作品がそうだった冒険活劇のエンタメ構成ではなく、もっと丁寧で息が長いプロットになっている。アニメというより文芸モノの映画に近い。短いスパンの冒険や事件ではなく、一人の設計士の人生の物語であり、ちゃんと歳月の流れを感じさせるドラマになっている。

 過去の典型的な宮崎駿スタイル、たとえば『ラピュタ』『もののけ姫』のようなストーリーテリングがフィットしないこの文芸モノ的な物語において、宮崎監督が採用したアプローチはリアリズムとファンタジーの融合、というものだった。冒頭の夢の場面からそれは明らかで、過去の宮崎作品を髣髴とさせるファンタジー的な描写が、二郎の夢の形で展開される。この「夢」のシークエンスは何度も挿入されて映画のトーンを決定づけているが、それに限らず地震の描写や、神秘的な結婚式のシークエンスでもファンタジー的な描写が効果を発揮している。その一方で、当然ながら従来の宮崎映画にはないリアリズムへの配慮もなされている。一人の設計士の生涯を描いたこの映画は基本的にはリアリズム映画だが、そこに宮崎駿ならではのファンタジー要素が注入されることによって、実写の文芸映画とは異なる質感の映画となった。

 またこの映画は、戦争嫌いと戦闘機好きという矛盾するファクターを抱える宮崎監督に、そろそろ矛盾に対する答えを出すべきと鈴木敏夫プロデューサーが促して製作されたものだそうである。企画書には、宮崎駿監督の製作意図として「この映画は戦争を糾弾しようというものではない。ゼロ戦の優秀さで日本の若者を鼓舞しようというものでもない。本当は民間機を作りたかったなどとかばう心算もない。自分の夢に忠実にまっすぐ進んだ人物を描きたいのである」と書かれているそうだ(Wikipediaより引用)。

 その言葉通り、本編の主人公・堀越二郎は、少年のようにただひたすら美しい飛行機を追い求め続ける。「美しい飛行機が作りたい」、彼はその、自らの心の内から湧き出してくる衝動に従って生きる。そしてこの映画はまた、そんな二郎を愛し、彼にその短い命を捧げた里美菜穂子の物語でもある。

 私はこの素晴らしい映画を観た時、これに心を揺さぶられない人間などいないだろうと思ったので、アマゾンやネットのレビューを読み、評価が賛否両論に割れていることを知って驚いた。批判のいくつかの理由は他愛のないものである。声優が下手だとか、ストーリーが退屈というものだ。二郎の声を演じたのは素人なので、私もプロの声優の方が良かっただろうとは思うが、それでこの映画の美点が打ち消されてしまうものでもない。ストーリーが過去の冒険ファンタジー作品と違うのは前述の通りだ。

 それとは別に、何がいいたいのか分からないという批判があるようで、これはいささか興味深い。「風立ちぬ、いざ生きめやも」の詩句から取ったタイトルを見るまでもなく、「力いっぱい生きよ」という根本のメッセージは明らかなので、この批判というか疑問はそういうことではなく、戦争に、つまり人々の殺し合いに使われる戦闘機をなぜ二郎は作り続けたのか、ということだと私は解釈した。つまり、前述の鈴木プロデューサーが提示した「矛盾」のことだ。

 この映画では、飛行機作りが戦争に利用され、人々が殺しあう道具となることがたびたび指摘される。飛行機作りは「罪深い夢」とのセリフがあり、「部品の費用で、飢えている子供たち全員に食べさせておつりがくる」「飛行機は殺戮に利用される宿命を持っている」などのセリフがある。ラストでは戦争のためにボロボロになった日本を見て、「一機も戻ってこなかった」「国をボロボロにした」と二郎が慨嘆する。

 しかし二郎は、飛行機作りを止めない。序盤に、自分は偽善者なのだろうかと呟く場面がある程度で、それほど葛藤しているようにも見えないし、結局自分の中でどう整理しているのかが観客には見えない。だから観客は不安になる。戦争の道具を作っているこの主人公は果たして良い人間なのだろうか? あるいは、二郎に腹を立てる人もいるかも知れない。こいつは偽善者だ、あるいは、死の商人だ。こんな奴に感情移入はできないし、共感もできない。

 しかし実は、製作側がその気になれば、この非難をかわすのはたやすいことだっただろう。おそらく宮崎駿以外の監督なら間違いなくやったと思われるのは、二郎が苦悩する場面を入れることだ。悩んで仕事を辞めようとする。が、誰かに諭されるか何かして、迷いをふっきって飛行機作りに邁進する。理屈ならどうにでもつけられる。しかし宮崎監督はそれをしなかった。なぜなら、実はそれこそが誤魔化しであり、エクスキューズだからである。先述の通り、「本当は民間機を作りたかったなどとかばう心算もない」。

 二郎が飛行機を作り続けたのは、それが彼にとってもっとも大切なものだったからである。どんな理屈をつけようが、あるいはつけまいが、彼は飛行機を作っただろう。宮崎駿監督はそれを知っている。二郎は美しい飛行機に憧れ、愛し、飛行機作りに携わりたいと願った。それが彼のレゾン・デートルだと感じたのである。

 だったら人殺しの道具を作っていいのか、という反論が聞こえてきそうだ。飛行機がただちに人殺しの道具だとは思わないが、あえて最初に言っておきたいのは、夢を追うとは基本的に自分勝手な行為だということだ。夢見ることは究極のエゴイズムである。それを隠すことこそ偽善だろう。人は世のため人のために夢を追うわけではない。夢にとりつかれた人間は他人のことなど構っていられない。もしあなたが自分の子供に「夢を追いかけてがんばるってステキだ」と教えるならば、いつか彼は夢を追いかけるために親を捨てるかも知れない。少なくとも、親を泣かせるぐらいのことはするだろう。それを覚悟しておくべきだ。

 私は二郎を、世のため人のために行動した善行の人というつもりは毛頭ないし、宮崎駿も同じだろう。彼はただ「自分の夢に忠実にまっすぐ進んだ人物を描きたい」のである。それが正しかったか、間違っていたか、答えを出そうとはしていない。ただ、この映画は二郎の行動の結果をごまかすことだけはしていない。先に書いた通り、飛行機作りの「罪深さ」はこれでもかと描かれている。ほとんど主要テーマの一つといってもいいくらいだ。

 もちろん、二郎は間違っている、「死の商人」である、私なら飛行機作りを止めるだろう、と考える人はこの映画を否定するかも知れない。それはそれぞれの自由だ。しかしこの映画のラストで二郎が作った飛行機が空を飛ぶ時、あの飛翔の美しさにあなたは打たれないだろうか。それは単にきれいな飛行機が飛んだというだけではない、夢の実現に向かってひたすら努力し、この世界で自分に与えられた時間を力いっぱい生きた二郎という人間の生きざまがそこに見えるからだ。

 人間とは煎じ詰めればエゴイスティックな生き物である。しかし、力いっぱい生きる人間は美しい。人は迷うかも知れないし、もしかすると間違うかも知れない。常に自分が正しいと確信できる人間などいない。しかし、自分に誠実に生きている人間ならば信頼できる。人を感動させるのはイデオロギーではなく、生きる上での真摯さだと私は思う。二郎の立場に立たされた時にあなたが飛行機を作り続ける人間であるにせよ、止める人間であるにせよ、真摯に生きているかどうかが問題なのだ。

 自分が一番大切だと思うことを、一番大切にして生きなさい。それが、この映画が私に語りかけてきたことだった。



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