アブソリュート・エゴ・レビュー

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渇きの海

2015-09-04 21:52:34 | 
『渇きの海』 アーサー・C・クラーク   ☆☆☆☆☆

 再読。最初に読んだのは子供の頃で、その後折りに触れ読み返しているがいまだに面白さを失わない。アーサー・C・クラークといえば『幼年期の終わり』や『2001年宇宙の旅』のような壮大な宇宙叙事詩を得意とする作家だが、本書はそういう類ではなく、月を舞台にした、かなりリアリスティックなスリラーである。正確にいうと遭難した船の救出劇で、どうやって助けるか、問題は何か、それらをいかに克服するか、という難問解決と、人の生死にかかわる人間ドラマで読ませる。エンタメの王道といっていいだろう。

 基本的には地球上で船や飛行機が遭難した時と同じ流れだが、もちろん、鍵となるのは月という舞台だ。真空。重力は地上の1/6。水なし、音なし。はるかに過酷な環境である。そしてある意味本書の真の主人公といっても過言ではないのが、タイトルにもなっている「渇きの海」だ。

 あとがきにもあるように、月という舞台は身近なだけにその環境は知り尽くされていて、いわゆる「月SF」はその条件を活かすことが肝要となる。逆に言えば、それを活かさないんだったら月を舞台にする必要性はない。そういう「月SF」である本書において、クラークが唯一導入したフィクショナルな設定が「渇きの海」である。船はこの「渇きの海」で遭難するのだけれども、実のところこれは海ではなく、微細な塵が積もったものだ。悠久の歳月の中で細かく砕かれた塵が堆積したものであり、真空の中で、このべビーパウダーのような塵はサハラ砂漠の砂より乾ききっている。

 地球上のどんな物質にも似ていない塵、そしてそれをたたえた「渇きの海」。乗客数十名を乗せた観光船セレーネ号はこの「海」の中に沈んでしまうのだが、液体と固体の両方の特性を併せ持つこの塵が、この救出劇の最大のポイントとなってくる。案の定、塵はさまざまな局面で予想を裏切る振る舞いを見せ、救出に死力を尽くす科学者と技術者のチームを翻弄する。当然ながら、そのあたりが本書最大の読みどころだ。

 完全な絶縁体である塵によって、船からの無線はすべて遮断される。忽然として消失したセレーネ号の居場所はどこか。まずはそれが問題になる。どうやってそれを探すのか。次に、どうやって生存者がいることを確認するのか。どうやって船の内部の人々と通信するのか。そしてもちろん、塵の海の中から、どうやって乗客たちを救出するのか。

 こうした問題が次々と救出チームの前に立ちはだかる一方で、船の中でもさまざまなカウントダウンが進行する。最大の懸念はもちろん、酸素。酸素がなくなる一週間が絶対のタイムリミットであることは言うまでもない。それから熱。完璧な絶縁体である塵に包み込まれて、セレーネ号は自らの熱を放射できなくなる。結果、船内の温度はじりじりと上昇していく。こうしたことを皮切りに、二酸化炭素の蓄積、水分の排出、などあらゆる要素が状況に関ってくる。人智を振り絞って考案された救出プランを嘲笑うかのように、月の自然は少しずつその裏をかいていく。アーサー・C・クラークの該博な科学知識をもって組み立てられた精緻な、そしてリアルなサスペンスは見事の一言だ。月世界の特性と「渇きの海」の設定を最大限に活かし、一難去ってまた一難というクリフハンガーを描ききっている。

 こうした科学考証・技術考証の面白さだけでなく、人間的要素もたっぷり盛り込まれている。救出されるのを待つしかない船の中では、人間的要素こそ最重要なのだ。絶対にパニックをひき起こしてはならない。が、酸素の減少、気温の上昇などにより、人々の不安は亢進していく。果たして最初に爆発するのは誰か。その時乗組員はどう対処すべきか。「ただ待つ」ことの退屈をどうまぎらわすか。船を脱出する時の順番はどうすべきか。セレーレ号のまだ若い船長とたまたま乗り合わせた有名なハンスティーン提督はありとあらゆることを考慮し、できる限りの対策を打っていく。プロの仕事だ。そしてここでも、予期せぬ事態が続出する。

 こうして船の中と外でギリギリの活動が進行し、さまざまな救助方法が検討され、これしかないという一点に向かって収束していく。色んなところで全力を尽くすプロの人々の働きは美しいが、本書を通じて耳にタコができるほど口にされ、そしてまた人々が思い知らされるのは、理論はどれほどよく出来ていても理論に過ぎず、実際はまた違う、ということだ。現実は必ず人間の一歩先を行く。必ず思わぬ何かがある。本書後半に、素人が出してくる色んな案を科学者が片っ端から切って捨てる場面があるが、現実と戦う時にもっとも重要なのはフィージビリティだ、というプロの確信があらゆることの根底にある。これが非常に納得できる。そしてもちろん、これこそが本書のリアリティとスリルの鍵となっている。

 余談だが、先に『北の夕鶴2/3の殺人』のところで触れたような、いわゆる「新本格」ミステリの荒唐無稽なトリックがどうも子供っぽく感じられるのは、こういう感覚の欠如による。「思いつきが面白ければいいじゃないか、実現可能性を云々するなんて野暮だ」というメンタリティには、プロの世界の厳しさがない。ぬるいのである。仕事を通して現実のしたたかさを知っている人は、みんなそう思うのではないだろうか。本書にあるのはそれとは対極にあるメンタリティである。プロフェッショナルでかつ科学的な思考がいかに知的興奮をもたらすか、本書はその絶好の見本となっている。

 そしてクライマックス、もう大丈夫だと思った時に襲いかかってくる最後のトラップ。最後の最後まで、「渇きの海」はセレーネ号の乗客とその救出チームの裏をかいてくる。まさに数秒の差が生死を分けることになるラストの息詰まる展開は、圧巻という他はない。

 ちなみに、私は昔からこの本の映像化を空想するのが好きだったが、チャチな特撮ではぶちこわしだと思って諦めていた。が、最近『グラヴィティ』や『インターステラー』のように圧倒的映像美で魅せるSF映画が増えつつある。もしかすると、ようやく本書を映画化できる時代になったのかも知れない。映像美に加え、スリリングな救出劇、重厚な人間ドラマ、オールスター・キャストを可能とする群像劇と、条件は揃っている。豪華なハリウッド映画には絶好の素材だ。誰か映画化してくれないか。

 


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