崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

「フタバから遠く離れて」

2013年04月28日 05時27分37秒 | エッセイ
 昨日ドキュメンタリー映画「フタバから遠く離れて」(舩橋淳)を鑑賞した。東日本大震災については既にマスメディアによって映し尽くされて脳裏にキチンとインプットされているのに今更ドキュメンタリーを見る意味は何だろう、何を期待するのか、自ら疑問をもって1時間半鑑賞した。おそらく250余の観衆はテレビでは見れない悲惨な状況を期待したのではないだろうか。ナレーションの代わりに時々全面字幕があるだけ、資料画面を最小限にして現地避難所の生活をそのまま見るものとして撮っている。トークで司会者の飯田氏が飲食の場面が多いのはなぜか質問した。船橋監督は日々の生活に寄り添うことで、ありのまま撮るのがドキュメンタリーだと答えた。それによると飲食は不足していないと感じた。少なくとも刺身などは一般の食卓より贅沢に感じた。それにもある男性は「美味しくない、昨日と同じ」と不満を言った。数人は政府に不満を言った。震災直後メディアに報道された、被害者がいろいろな支援に丁寧に感謝する場面は見当たらなかった。もうその心は無くなったのだろうか。
 ドキュメンタリーの撮り方は人類学者と似ている。私が北朝鮮で撮った映像を見せたら多くの人からテレビと違うと言われたのと同様である。映画が終わり、トークの時、船橋氏と元町長の話では東京と福島の関係を加害者と被害者の「犠牲のシステム」として考えていると言っていた。都会と地方の不平等だと主張する。まるで国家間の関係で考えているように聞こえた。3.11をリアルタイムで生中継で見たマグネチュード9・0の地震の後、高い津波に呑み込まれる怖さ、自然の怖さが私の脳裏から離れない。しかし、この映像ではそのに記憶が大部消えたように感じられ、映画とトークから距離感を感じた。あのような状況では一人も生き残らないだろうと思われたのに、生存者たちは無条件に命に感謝する場面は消えている。もちろん生存者ゆえに辛いこともあろうと察している。その震災後の人間の生き方の変化がどう描かれているかを私は期待をしていたのである。原子力は我々に電力をくれる一方放射能の危険がある。太陽も光と熱をくれる一方砂漠化することがある。海も魚など海の幸をくれる一方津波を起こす。風も追風になるが台風にもなる。人もやさしい面もあるが怖い存在である。大震災から自分自身に戻って考えてほしい。

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