崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

‘チンダルレ’

2013年04月15日 05時15分39秒 | エッセイ
4月の中旬になってやっと春日和で読書会の主メンバーの3人で高速道路を走った。山口の山には、点々として薄ピンクの花が見えた。‘チンダルレ’という花、日本語ではカラムラサキツツジである。日本での花見騒ぎの桜とは違って韓国人は日本植民地時代の民族民謡詩人金素月の詩を誰でも知っているだろう。私から離れていく恋人を何にも話さず行く道に‘チンダルレ’の花カーペットを敷いて上げると言う内容である。私は子供の時、詩をおぼえる前から親しまれた懐かしい花である。一時は共産主義の「赤旗」の赤い花として北朝鮮の国花と思われたがそれは違った。日本のソメイヨシノは街の花と言えば韓国のつつじは山の花「山ツツジ」である。両方とも真っ赤ではなく、薄ピンクである。桜は群れ花、つつじは紅点花である。「紅一点」の花でも良い。
 日曜日の山口文書館で一日中木炭関係の文献を読んだ。館内貸し出しでも簡単ではない。もちろん話をしてはいけない。鉛筆以外のものではメモしてはいけない。若者は近付きたくない空間である。「いけない」の禁域のなか、まるで「刑務所か」と皮肉を言いたかった。しかし苦しく、貴重な文献を静かに読めた。昼食と帰路の車内では議論した。他の文書館に行こうとしたが、そこの職員は不親切だといわれた。刑務官(?)のイメージはどこでも同じか(笑い)。帰路の西空が真っ黒、その方向に向かって出発、途中で土砂降りの雨と風、倉光さんの安全運転は慎重運転へ、ようやく帰宅、死にそうに寝て復活(?)、きょうは春日和。(写真Life story)

海外養子縁組問題(「東洋経済日報」掲載エッセイ、2013.4.12)

2013年04月14日 03時27分18秒 | エッセイ

 先日「毎日新聞」 余録(2013年4月7日)の記事が気になった。:ソウルで行われた国際会議に最も注目されたのはフランスの39歳の女性閣僚フルール・ペルラン氏、彼女は韓国で生後間もなく道端に置き去りにされて、海外養子としてフランスの夫妻に育てられた。また釜山生まれの双子姉妹が米、仏の養親に育てられ、双子であることも知らずにいたが20年以上を経て二人の縁は劇的につながったという。韓国からの海外養子は、朝鮮戦争の孤児を米国などに送ったことに始まる。それを韓国の重い課題だと指摘した。
 それは戦争孤児だけの話ではない。韓国人が捨てた子供が海外で成功して有名人になったら歓迎するという話は世界どこでもある現象である。私は欧州を旅行した時いたるところで韓国出身孤児の話を耳にした。私の友人の作家故崔炳殷氏のストックホルムの自宅で長い話を聞いた。彼はヨーロッパの孤児を以って韓国との架け橋を作る夢の小説を書いた。
 また私の友人、世界的な著名な宗教学者でありイギリス在住のアメリカ人と、イギリス人の夫妻は韓国から二人の孤児を養子にして立派に育てあげて「イギリス紳士」を作った。あわせて韓国伝統的な愛犬バンディターも「イギリス紳士犬」になって天寿をつくした。私は、今は成人となったその子供たちの話を聞きながら、なぜ韓国には中国でのような残留孤児を育てた話はないのか、韓国社会の問題点を考えた。
 戦争孤児と違って入養児童の90%が未婚母の子であることがより大きい問題である。韓国政府は世界最大自殺国、海外養子縁組が多い国から脱皮しようとしており、主に経済的対策を取っている。国内養子縁組が出来ないことに問題の核心がある。未婚の母から多くの養子を量産する結果、窮極的に不遇な人々が多い社会を作ることからホルト児童福祉会が縁組などを支援して古い。私の家内も韓国でその支援活動をしたことがある。
 この問題は古く新しい。1920年創刊号(朝鮮総督府)の「朝鮮」に掲載されている小田幹治郎の「朝鮮の姓について」を読書会で読んで創始改名の意図を察知した。朝鮮の姓は血縁、日本の氏は家門であり、基本的に異なること、特に寡婦が戸主になる時に姓が変わるということの問題点が指摘された。さらに、「異姓不養」(姓が異なる間では養子ができない)という鉄則があり、今問題のシングルマザーの話も出る。男系優先、男子選好思想はまだ強く底流している(拙稿「韓国人の名前の文化人類学的考察」『名前と社会』、早稲田大学出版部)。その問題は今も続いている。女性大統領に男系中心の血縁意識の改革を是非成し遂げてくださるように提言する。
 

 

家内が手指二本手術

2013年04月13日 05時18分32秒 | エッセイ
 口コミで手外科として有名な医師を検索して情報を確認して、昨日家内が2本の指の手術をうけた。大韓キリスト教会の鄭牧師夫婦が朝早く病院まで送って下さり、祈ってくれた。病院の中に人は多い。男性が多く感じる。男性が女性より短命なのは病気が多いということであろうか。しかし一回のフロアーでは患者のような人は一人もいないように見える。むしろ一般の集っている客より上品に見える。廃れていく街とは異なって盛況であるようにみえる。手術室の入口で別れた家内と4人部屋の病室で手術後再会。手術結果は良好、悪性ではなかった、あとは回復待ちだけということであった。同室者の他の3人の女性は骨折したこと、手術をした事などを明るく病状を語ってくれた。窓から森林に被されている山が見えている。
 手術の前に待合ロビーにて聞き上手の牧師の奥さんに私の病歴談を語った。
 
 私「実は私の肺結核末期の病気の時にキリスト教伝道師に救われてクリスチャンになったよ」
 女史「そうだったんですか」
 私「それを書いたエッセイ集がもうすぐ出版されます」
 女史「それは証しであり、伝道書ですね」

 私のインタビューをはるかに上回る聞き手の彼女により私の話は長く続いた。手術のその日が家内の誕生日であることでケーキをプレゼントしてくれた(写真)。バプテスト教会の坂田氏の運転で、昼食をし、帰宅した。今日は千葉からお姉さんが来る。
 家内はその手で多くの患者さんに奉仕してきたが老化していると感じた。私の手は元気でこの文を打っていることは幸いである。
 
 
 

孤立・孤独を楽しむ人

2013年04月12日 04時55分14秒 | エッセイ
 真冬のような寒さの中、北朝鮮の挑戦への挑発が高まっている。ロンドンでの主要8カ国(G8)外相会合の議長声明は、北朝鮮に「それはさらなる孤立を招くのみだ」と指摘し、挑発するとさらなる北朝鮮を孤立化するしかないと声明を発表した。戦争準備が完了したとか戦争状態だと宣言が続いても韓国や日本は比較的に平穏である。今日か明日か待っているような気持ちの人も多いようである。戦争は国民を外部へ向けながら「総和」させる効果が大きいことは独裁者はよく知っている。戦前の日本の「国民総和」や「五族協和」のような状況の再版といえる。上の写真はニューヨークタイムズに載っている目下北朝鮮の金氏偶像化の現場写真である(North Koreans danced in honor of the leader Kim Jong-un)。悲しい。
 私の周りの人にもこのような大げさな事ではないが、自ら人に棘を刺す行動を繰り返し孤立化していく人がいる。彼らはそれなりに正義感を持っているが、同時に否定的な人生観を持っているのが特徴である。ますます否定的な「正義感」を高め、職場を去っていくか、「孤立・孤独を楽しむ」ように暮らしている。このような人はどこの職場でも存在するはずである。
 昨日山口日韓親善協会連合会が所蔵していた200冊ほどの本を東亜大学東アジア文化研究所に運んだ。協力してくれた伊藤巧氏、礒永氏、家内の幸子に感謝したい。小さい「和」を広げること、その場を作っていると感じた。

ウニ醤

2013年04月11日 05時27分25秒 | エッセイ
 明日家内の誕生日のためにソウルの姉からワカメが送られてきた。必ず毎年送ってくれる。そのダンボール箱にはキムチやトウガラシそして生のピーナツなどが入っている。また年中食べるほどの味噌が入っている。冷蔵庫に入り切れないほどたくさんで、長い間伝統的な故郷の味が楽しめる。その上、小倉在住の文学者の朴仙容氏が初めて読書会に参加するために来られて、彼らの開発食品ウニ醤瓶詰めをたくさん持ってこられた。既に商品化したものである。昼に用意した弁当で皆で試食した。生ウニと韓国の甘辛みそのコチュジャンの調和が実においしい。私は以前からコチュジャンにウニを混ぜて食べていたので慣れた味であるが、とにかくみんなで1個を一瞬にして空にした。美味しいのはもちろんである。ただ一瓶800円というやや高価なものであり、お土産には良いが、日常食としては値段が気になるところである。
 一般的に韓国人にはウニが日本ほど好まれない。私は昔海岸で民俗調査の時、味わって以来の好物である。その時海岸で見たウニ採り作業に感動した。丸く黒い棘物の中から黄色い微量の卵、まるで宝物、その味に感動した。どうしてそんな異物のようなものから取り出せるのか。漁民に聞いたところ伝統的には王様に進上する品目であると過剰風に言われた。今は高級な宮中料理も庶民が簡単に食べる様になった。味の民主化の時代になっている。しかし朴正熙元大統領はみそ汁やマッコリなど庶民的な食生活をされた人として知られている。人の味は簡単に変わるものではない。「おふくろの味」を越えるのは難しいことかもしれない。

成功物語りの失敗談

2013年04月10日 04時55分13秒 | エッセイ
「月刊朝鮮」4月号で面白い記事を読んだ。韓国の朴大統領が未来創造科学部大臣候補に指名した韓国系アメリカ人の金鐘勲(52歳)氏という人物のことである。彼について記事以外にアメリカのWPのインタビュー記事やYOUTUBEの話を聞くことが出来た。1975年中学生の時アメリカへ移民し貧困な不良少年(本人のことばbad kid)、不幸な日々を越えて名門MITを卒業して、ATMなどのベンチャー企業で大成功して、米国400人内に入る大富豪になった。韓国人の夢のアメリカンドリームの成功物語りそのもののような人物である。その彼が生母がいる韓国へ献身する機会と思って大臣を快諾した。しかし、韓国の政界とマスメディアは彼の成功物語りはさて置き、アメリカのスパイとか、売買春業者、不動産投機者などと連日報道をした。
 成功物語りの人物の彼は祖国で大失敗のような声明を発表をしてアメリカに戻った。それはアメリカの韓国系アメリカ人社会へ大きいショックを与えている。彼は韓国人の強く堅い縄張り意識、ナショナリズムに大きく失望して語っている。彼の声明文に「祖国の未来のために全てを捧げようとした夢はバラバラに壊れてしまいました」といった。ジョウジ・ワシントン大学のビクトル・チャ教授は韓国のナショナリストの条件反射的反応と解釈した。
 私は韓国を離れて日本に住む者として痛感・同感するところである。村の悪口と噂の文化の延長線にある政界とマスメディアの「いじめ文化」が社会を悪くする。私にもアメリカンドりームがある。それはアメリカが戦争孤児を含め多くの移民を受け入れて、彼らが能力を発揮するような包容力を持っている社会であるからである。

Korean immigrant history is relatively short, and most of us came at a time which was 1975, looking for better economic opportunities. They had almost no money when they came. Most of us, most of our parents, actually had to walk to work, which is kind of impossible in today's environment because everything is so far. You know, a couple hours walk just to get to work. Most of us had to get our clothing from thrift shops, 50 cent kind of things because they didn't have any money. I guess there is a language barrier, obviously, because I never spoke English until I came to the States. And, I was actually a shy kind of person, so it was even more difficult. In some ways, that was probably one of the most stressful times in my life, not necessarily because life was harder, but because you are a teenager, you couldn't take it as well, and I used to have a nose bleeding all the time coming home, just simply from stress.

新学期への心構え

2013年04月09日 03時30分48秒 | エッセイ
 このエッセイを10年間毎日書いている。大体の枠と長さが決まっている。長い間、書いているのでマンネリ化しないように気をつけている。新聞などのコラムも古い文学や偉人伝から引用して現実を語るような枠が決まっているものが多い。それらを読んでヒントを受けることがあるが中にはマンネリ化していて読まなくてもいい部分が多く新鮮さが感じられないものもある。私はそれらを読みながら戒めている。エッセイであるから何でもつぶやくようなものを書いてはいないかと反省をしている。何を、何故書くのか。
 今週から新学期の授業が始まる。40年以上も教壇に立っているからと言って、ただ立てば授業が出来るわけではない。何時もベストの内容を準備し、どう効果的に伝えるか、考えなければならない。自らマンネリズムを警戒している。5年近く連載している「東洋経済日報」の締め切りは今日である。ただの私事を書くのではなく、時期と状況に合うテーマが見つからず困っている。われわれは簡単な習慣を繰り返しながら生活をしている。顔を洗って食事をして一日の生活が始まる。それもただの繰り返しだけでは面白くない。より美しく、より美味しく、より健康な考え方をして生きるのが楽しい。悩みや雑念だけではなく、創意的に考えることが必要であろう。(写真は1992年筆者の最初のエッセイ集)

「ふぉーく三昧」

2013年04月08日 03時40分53秒 | エッセイ
 冬に逆戻り,春の嵐で死者2名、怪我30余人という悪天候の中で下関黒井の鬼ケ城・鬼やんま野外劇場(下関黒井鬼ケ城登山口から山道500m)へ向かった。戦前炭焼きが行われた森林豊富なところである。運転は医師の倉光誠氏、小倉在住の文学者の朴仙容氏が同乗した。教会での礼拝が終わり次第に出発、鍬野保雄氏が先導してくれた。公演場所は緊急交流センターに変わっていた。そこに到着、車の中で弁当をたべたが半分しか食べる時間がなくぎりぎり間に合った。この悪天候では10人でも集まったら良い方かと思っていたが駐車場は既に満車であった。100人を超える盛況であった。
 フォークシンガー李陽雨氏が主宰し、歌手行脚40周年を振り返る「ふぉーく三昧」(4月7日(日) 13:00-17:00大人2000円/中高生1000円)であった。照明、音響なども拙劣な中に田舎の祭り風な公演が李陽雨氏の立ち話のようなイントロ話で始まった。一組のシンガーたちが5曲も歌い放題になっているようで最初から居眠りする人もいたがファミリーや夫婦のDUOたんぽぽ、SAYAN/猿舞座/MIU&AYA/B3/吉原達也などの出演、徐々に田舎の土間が華麗な芸術の舞台化し、拍手で盛り上がった。寒くても風でも野外舞台がもっと似会うと思った。
 帰りは心配が一つ。倉光氏の新車の完全電力乗用車の充電量の限度が気になった。ブレーキとアクセル、暖房などでは電力消耗が激しく、暖房もせず節電運転で無事に帰宅した。本当にロングストデ―、長い一日であった。得たものは大きい。地方が、田舎が廃れて、共同体が壊れていると言われるが、まだまだ地方は活力を持っているということを新しく認識することが出来た。素晴らしき出出であった。

マクワウリ質にあり、心にあり」

2013年04月07日 00時00分19秒 | エッセイ
昨日は大学の入学式、韓国からの留学生たちが多く参加した。その中には私の広大時代の学生だった黄君の娘がいた。彼女の母親が韓国から来られて参加した。彼女がお土産として韓国の慶山名物のマクワウリを1箱を持ってこられた。私の好物であることを覚えて持ってこられたのである。聞くところによると日本でも昔よく栽培したが収入の高いメロンに替えてしまったという。マクワウリは韓国では庶民的な味のものであり、値段的にもそれほど負担のある土産ではない。日本ではほぼ目にすることがない、珍しい。時々輸入食品として売られ、食べることはある。
 研究室の私のテーブルの上に乗っかっているマクワウリの箱を見ていた同僚の礒永和貴氏がマクワウリを見て「日本にはない」という。それは物の話ではなく心の話であった。つまり先生(私)に対する弟子の敬愛ある礼儀の話であった。「それが韓国人には強くある」といった。彼は物を見て心を読んだ。日本で安くて無くされたマクワウリが皮肉にも甦って高級化されのである。物の値は「質にあり、心にあり」。



「敵対関係意識」

2013年04月06日 04時45分52秒 | エッセイ
山口の参院補選が注目される中、二人の対決が話題になり始まっている。元下関の市長を4期務めた江島潔氏が自民党推薦の候補者の一人である。自民党県連の会長の石崎幸亮氏に彼の彦島事務所で会った。以前から日韓親善協会などを通してお付き合いいただいて長い。事務所には江島氏の写真の入ったポスターが貼られているがまだ選挙の雰囲気を感ずることはなかった。また江島氏と戦う平岡秀夫氏の推薦者である下関市議員の田辺よし子氏と通話した。彼女の夫の田辺氏とは日韓を結ぶ会などで話し合う時はしばしばある。昨日彼は民主党で法務大臣を経て民主党と社会党の推薦で候補になっている平岡氏を話題にした。
 昨日は両陣営の人と会っても彼らにコメントはしなかった。私はなぜ遠慮したのだろうか。両陣営を「敵対関係」のようにオーバーに意識しているからであろう。私の思考にこのような「敵対関係意識」が潜在しているのではないかと反省する。長い間日韓関係も「敵対関係」であった。私はその瀬戸際を生きてきた。もっと長い朝鮮半島の南北関係は激しく長い。敵対関係の接点である板門店にソウルから、そしてそのすぐ後に平壌から同じ会談室を訪ねて南北の敵対関係を感じて、文を書いたことがある。このような私の敵対意識私は私だけのことであろうか。誰でも人間関係で互いに「敵対関係」(仲が悪い)人の仲裁の立場にある時があるだろう。その時の処身、どうすべきであろうか。替わりがわり味方をしながら相手の悪口を言うのが賢明であろうか。あるいは避けるべきであろうか。あなたはその敵対関係にいきるか、和平関係へ努めるか。それは生き方の問題になる。昨日日韓親善協会の事務室から我が夫婦の共著である『日韓を生きる』を見つけて3冊いただいてきた。

私の最初の留学生

2013年04月05日 04時44分26秒 | エッセイ
私が日本で初めて中国からの留学生の指導を担当した人から手紙と土産が届いた。20余年ほど前中国内モンゴルからきたモンゴル族の女子学生の杜愛華と夫君のデリクール氏である。夫婦に娘が生まれた。我が夫婦は内モンゴルのホハホートの彼女の実家を訪れたこともある。空港には2台のマイクロバスで大人数の人が迎えてくれた。彼女の夫のデリクールは2年前に内モンゴルに帰国して草原の絵などを描いているという(写真)。絵に素質と才能があって今は個展もするようになったようである。
 杜さんの手紙には「子供が生まれた時、先生と奥様が粉ミルクや紙おむつなどいっぱい持ってきてくれました。その時の感動は今でも忘れません。中略 みちこは今年日本美容専門学校を卒業し、昨日会社の説明会と入社式と会食に参加し熱情的で責任感のある会社です。とりあえずホッとしました。春日井での先生と奥さまとふれあいの日々を思いだし、感無量でした」と書いてある。私どもにはその記憶も止めないほどの年月の流れとそんな小さな事を覚えてくれている嬉しさと懐かしさに感無量である。

科研採択の朗報

2013年04月04日 04時35分14秒 | エッセイ
昨日の読書会で私は「朝鮮」1920年創刊号(朝鮮総督府)から小田幹治郎の「朝鮮の姓について」を読んだ。朝鮮には李、金、朴、鄭、尹、崔など総数279姓であること、朝鮮の姓は血縁、日本の氏は家門であり、基本的に異なること、特に寡婦が戸主になる時に姓が変わるということの問題点が指摘された。そこに創始改名の意図が表れている。この研究以前の今村鞆の研究を含め1940から実施した創始改名までは30年の調査研究があったことがわかった。「同姓不婚」(同じ姓の間は結婚できない)、「異姓不養」(姓が異なる間では養子ができない)という鉄則が今揺れて法律的には先進したシングルマザーも認められているが、単系男系優先、男子選好思想はまだ強く底流している(拙稿「韓国人の名前の文化人類学的考察」『名前と社会』、早稲田大学出版部)。その朝鮮の伝統と植民地政策に関する私の研究は今も続いており、執筆中である。
 私の研究を応援するような朗報があった。私が分担者として応募した科研が採択されたと代表者からのお知らせが昨夜届いた。4年間植民地研究をグループで行うことができることはうれしい限りである。進行中の法政大学での5年間の研究会と合わせて議論することは楽しい。日本に来て研究支援に恵まれて感謝である。また、今度の代表者に感謝している。
 

戦争が即発するようなニュース

2013年04月03日 05時27分21秒 | エッセイ
 北朝鮮からいろいろと戦争が即発するようなニュースが聞こえてくる。「火の海」「血の海」をはるかに越えた品のない言葉に嫌な気分になる。しかし、日本と韓国を往来する人は南北緊張関係を話題にする人はいない。そのわけをあえて聞いてみたら北朝鮮の攻撃を待っているかのような返事であった。韓国国民の心理かもしれないという。攻撃されたら北朝鮮は一気に焦土化し、統一は半日で可能になるのではないかと過剰な自信を持っている。実に挑発を待っているような「戦争心」が低流しているような返事である。
 朝鮮労働党中央委員会総会が重大な会議を行ったという。それについては気になることがある。日本のマスメディアは北朝鮮の人民大会が「日本の国会」に当たると付記する。中国共産党のものと同様、朝鮮労働党の人民大会とは指導者の部下会や職員会のようなものであり、日本の民主主義的「国会」に比するものではない。それをそのように付記することは便宜な重大誤報であろう。外国の「大統領」を日本の「天皇」に当たるという素人的説明であり、危険なことである。中国や北朝鮮の人民大会の委員の選出方法を正しく伝えるのがメディアの責任である。そして今の緊張関係が民主と独裁の対立であることを明らかにしてほしい。

ネット・網を張る

2013年04月02日 05時30分37秒 | エッセイ
 昨日新年度の辞令交付式で研究所所長の拝命を受けるために列席している隣の方がこのブログ(FB)を読んでいるとささやいてくれた。学長の式辞で大学が生き残るための危機を越え、比較的に安定していることを感じた。日中韓関係の悪化によって留学生が減っても全体の新入生が増加したことは嬉しい。教職員、経営側の努力が大きかったと評したい。これからもこの時代に生き残るということを考えてほしい。
 数日前シャッターダウンしている街を歩いた。中には生き残っているような店もあった。ホテルなどはおそらくインタネットなどで客を保っているようである。道を往来浮遊する人波の中に商品をひろげて商売繁盛を狙う時代は過ぎている。インターネットのネット・網を張らなければ商売も人間関係も難しい。岸壁に立って竿を投げる釣り人は餌も投げる。極く世俗的かもしれないが、ネットを張って欲しい。新訳聖書に出る逸話でもある。

***小生のホームページhttp://choikilsung.net復元しました。

「復活祭」

2013年04月01日 05時39分20秒 | エッセイ
 昨日朝食前に火の山のトルコチューリップの花見を兼ねて、愛犬ミミチャンと一緒にドライブ・散歩をした。桜は満開していてチューリップを背景にしているか、主題になっているか、その調和が感動的であった。歳をとるにつれ感動がすくなった気がするが、むしろ美感はセンシティブになる感がある。教会では死を克服して甦りの信仰、博愛、希望を与えた「復活祭」で主婦たちが準備した昼食、そして、和気あいあい桜の花見に行き、急いで帰宅、一冊のエッセイ集のゲラ校正を終えた。その後の事であった。
 私のホームページが検索できないことに気がついた。開設してから10年ほど管理してきたものが消えてしまって大変困惑している。ただブログやフェスブック、Twitterを通してコミュニケーションは可能である。最初にほぼ手作りで時間を掛けて作り以来知人などの協力得ながらリーニューアルや更新してきた。最近は毎日にブログを更新しながらフェスブックにも慣れてきた。ホームページは私自身必要としているが、多くの方に利用していただいてきたのに検索できないのは初めてのことである。古いホームページビルダーから作業を深夜までしても「復活」させることは出来なかった。

***小生のホームページhttp://choikilsung.net復元しました/。小野さん、有難うございました。