崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

東京裁判と靖国合祀

2013年04月26日 03時42分38秒 | エッセイ
 目下問題になっている政治家の靖国参拝を「日本宗教史」の講義で扱ってみた。まず学生たちに日本人であることから抜け出て考えてみるよう提言し、ドキュメンタリー映画「東京裁判」を見せてから「靖国合祀」の問題を議論した。戦争中の殺し合いを戦後の極東軍事裁判所で裁くことが正しいのか、根本的な問題に迫った。日本軍が戦争中、一般人を残虐に殺したことの「殺人罪」、つまり人権問題と戦争予防のために罰を主張し、結局7人の絞首刑が執刑された。ここに基本的な問題がある。つまり戦争中に殺し合ったこと(人権や犠生はあっても)が殺人罪となるのかということである。そうであるならばあらゆる戦争が「殺人行為」、軍隊は「殺人集団」にならざるを得ない。戦争をどう裁くかが問題である。
 いわば7人の「A級戦犯」は靖国神社に合祀されて、日本の政治家によって参拝される。それが韓国や中国によって非難されている。学生の十亀君は日本の植民地や戦争占領地は広く台湾、東南アジアなどのそれぞれの国からはそれほど問題視されていないのはなぜか、さらに西洋諸国の被植民地であったアジア・アフリカの反発もそれほど聞かれないのはなぜだろうと問題提議をした。なぜ日中、日韓関係において常に戦争と植民地が問われるのか。それは現在の政治的な状況によるものであろう。その問題を考えるに政治を越えて、より普遍的、客観的な思考をすべきである。
 「靖国合祀」という戦犯の死霊を祀ることへの批判である。私は以前2回ほど月刊雑誌「正論」に寄稿したことがある。つまり私の宗教・民間信仰の研究の見識からは善神や悪神でも祀られることは世界的な宗教現象であることを述べ、日本人が戦犯でも偉人でも、どんな死者でも祖霊「英霊」として祀ることに他の国が文句いうことはないと書いた。そのようなことは先進諸国や後進国を問わず「戦争英雄」のメモリアルはいたるところに存在する。ただ問題は、それを宗教的な次元を越えてナショナリズムに利用することは危険である。その点、日本内部からも批判すべきである。韓国や中国は日本のナショナリズムを警戒することは悪くない。しかしもっと怖いのは中国の軍事大国化や北朝鮮の核化である。平和のために今、日本のナショナリズム化を警戒すべきであるのに中国や韓国は植民地歴史認識の批判をし、むしろ日本のナショナリズム化を刺激し、強化するのに効果的な作用をすることになり得る、そのような発言は自重すべきである。