崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

テロと聖戦

2013年04月20日 05時25分31秒 | エッセイ
スポーツ競技は選手の戦いで行われる。観衆はそれを観て楽しむ。しかし選手たちの反則や喧嘩などになることがあり、観衆も巻き込むことがあって悲劇的になることもある。戦争は軍人によって行われるが無辜な一般人が犠牲になることが普通である。しかし戦争には歴史があり、一定のルールが存在している。たとえば宣戦布告や捕虜の扱いなど国際的な決まりがある。マイケル・ウォルツァーは勝利を前提にして「正しい戦争」を政治的な道具として考えている。アメリカがよく戦争をすることが分かる気分である。
 戦争のルールや規則をはるかに超えているのがテロの問題である。戦争と違ってテロは主に無辜な(innocent)一般人を対象とするから非道徳性の極まりである。われわれは被害者側からテロ(terror)というが、テロリストの加害者側からは「聖戦」ともいわれるのが大きい問題である。いま戦争と同様怖いのはテロである。それは新しい問題ではない。過去多くの被植民地などではテロが独立愛国運動の手段として称賛された。いわばテロリストが民族的な英雄とされている国が今も少なくない。
 4月15日に発生したボストン爆破テロの容疑者の男2人はキルギス出身のチェチェン人だという。テロは戦争の方法では扱い難い。一方的にテロという被害者側からだけではなく、加害者であるテロリストを支えているジハード、聖戦の意味にも関心を持つべきである。テロを起こす人々の範囲、属性、愛国心などの背景を伝え、よく分かる必要がある。それのために戦前の「聖戦」と「抗日運動」などを以って考えて、対策を立て直すべきであろう。