いい国作ろう!「怒りのぶろぐ」

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談合三兄弟~その2

2005年07月25日 21時33分21秒 | 社会全般
検察は、信義に答えるべく本気を出しました。遂に公団副総裁逮捕に繋げました。そう考えることにします。検察が頑張ったのです。中枢に迫る為に、一生懸命捜査したんだと思います。「法の信頼」を取り戻す為に・・・

Yahoo!ニュース - 毎日新聞 - <道路公団>内田副総裁を逮捕 橋梁工事を巡る談合に関与


ふと見れば大ニュースでしたよ。

そして談合組織を壊滅し、行政にも変わるキッカケを与え、経済界も変わろうと考え、浄化に努めるということなんだと思います。失った信頼というのは、何倍も努力しないと、再び同じレベルには取り戻せないのですから。そういう意味でも、検察は頑張って捜査したのだろうと思いますよ。

国民の信頼を取り戻す為に。


遂に公団中枢に辿り着いたのです。腐れ役人逮捕に繋げたんですね。
多分道路公団総裁が連続してテレビ出演した時に、既に逮捕見込みが立っていたのではないのかな?
「捜査の成り行きを見守る」とか答えていたのですが、隠そうという感じはなく、「副総裁にも捜査が及ぶか」という質問には、通常「要職にある公団幹部ですから、犯罪に関与していないと必ずや信じています」とか答えるのが一般的だと思うけれど、否定することさえなかったから、「あれ?」って思っていた。むしろ公団に捜査が及ぶことを待ち望んでいたかのような感じだった。


近藤総裁が外部から颯爽と飛び込んで行ったものの、内部の幹部連中から相当の反発を受けたり、実質的支配権を内部の「生え抜き組」が握っていて、そういう組織浄化の妨げが多すぎたことの裏返しと思います。
そういう連中に鉄槌を下し組織を浄化させる為には、どうしても腐れ役人たちを排除しなくてはならなかったのだろうと思う。その為には総裁自ら「不退転の決意」をテレビの前で語るべき、と考えたのだろうと思う。

普通は公団捜査開始になったら、組織トップは嫌々合同インタビューに答えるくらいで、他の報道番組なんかには出演しないよ。古館あたりに、「一体どういうことなんですか。私は本気で怒っているんですよ。(あと1分では終わんないから。とディレクターとかに答えていた)」などと言われたくはなかろう。ナマ本番中に番組指示を無視してまで、総裁に絡んだのはある意味凄いが(笑)、インタビュアー本人の個人的感情をぶつけるよりも、総裁の答えをもっと尊重するべきであったと思うけど。あの夜、総裁は報道番組の「はしご」だったもんね。普通は有り得ないんだよね。


思い起こせば、公団に捜査が入った時に、近藤総裁は元気よくインタビューに答え、「必ずや改革を実現するよう決意している」というような意見を述べていましたから。きっと大きな期待があったんだろうと思うのです。


だから、内部深くまで捜査が及ぶということを待っていて、それに公団改革の将来を委ねたのかもしれない。捜査が副総裁まで及ぶならば、組織改革が可能になると思ったんじゃないかな。そして、中枢に捜査が届くように、ある「意志」が働いており、総裁も当然それを期待し、協力するように命じていたんじゃないかな。

また変な邪推をしてしまいました。ゴメンナサイ・・・




「反専門家主義」が顕在化したブログ世界

2005年07月25日 18時56分19秒 | 社会全般
今全世界で反乱が起きているそうだ。まだ名前がないそうだが、そのイデオロギーとは「反専門家主義」ということらしい。そういう反乱が世界的に氾濫しているようである(いつも下らないダジャレで失礼)。

24日の読売新聞朝刊の「地球を読む」は、時々登場するアルビン&ハイディ・トフラー夫妻でした。この2人をもってしても、「ブログ」という社会現象についての記述を避けることは出来なかったということなのでしょう。勿論日本と米国のブログの状況が異なっているだけに、同列に論じることもできないでしょうが、トフラーの記事を非常に興味深く読んだ。夫妻が示したのは、冒頭に書いた「反専門家主義」というイデオロギーであった。何となく以前に読んだ記憶があるような・・・って、bewaad さんの記事でしたけれど。「反専門家主義」というのと「反知性主義」というものには多少の違いがあるのかもしれないですけれど。まあ、大体似たり寄ったりということで(笑)。


リチャード・ホーフスタッター著『アメリカの反知性主義』に見られるように、米国における「反知性主義」には伝統がある。ブログの登場よりはるか以前から、イデオロギーとして存在していたと言ってもいいのだろうと思う。ところが、昨今のブログによって生じてきた「反専門家主義」というのは若干趣きがことなるのかもしれない。反乱というほどのムーブメントではないと思うけれども、蔓延している風潮というのは、やはり「反専門家主義」という側面が捉えられているのだろう。政治の世界では、「反知性主義」も「反専門家主義」も同様の結果を生み出す。それはどちらも公職経験を積んだ政治の専門家には、多くの期待が集まらないということであり、著名人に代表される政治家が好まれるということである。これは米国も日本もインドも記事中で例示されていた。

「反専門家主義」では、職業的専門家に対する懐疑心が見られるのであり、米国の場合には特にメディアについての疑念が日本以上に強く表れたと思われる。ダン・ラザーの一件やコーラン冒涜疑惑事件などがその代表例として記事中でも挙げられていた。こうした政治やメディアへの疑念以外にも、資格要件への疑惑の増大も見てとれると述べていた。この資格についても、カナダの社会学者ベンジャミン・シンガーの次の言葉が紹介されていた。
「資格制度は、皮肉な問題を生み出した。人々や諸組織は常に制度の抜け道を探そうとするからである」

こうした資格制度の裏側を見透かされた専門家たちに頼る必要性が少なくなり、また信頼するべき相手を判定する能力は格段に向上したと「反専門家主義者たち」は信じているというのである。

そして、記事中に「反専門家主義」の核心は次のように示されている。
「古い制度は正統性の危機に直面している。これは権威の危機である。情報と資格制度に関する専門家たちの独占体制に風穴を開けることによって、人々は、いわば自分自身が自分のための権威となることを模索しているのである。」


すなわち、「反専門家主義」が氾濫するブログの世界では、「正統性の危機」「権威の危機」なのである。情報・知識をもたらす技術によって人々の判定能力は高まり、専門家たちの情報のウソを見つけ出すことが出来るようになったということであろう。以前に少し書きましたが、「サイバー・デモクラシー」を醸成する為には「専門家の意見・情報が重要」であると思っていたのですが、「反専門家主義」の流れからは、否定的と言えるのかもしれない。ブログの誕生によって、従来独占的であったはずの領域で専門家たちの信頼性が減弱しているのであり、今までは通用していたのに、情報や意見などにある穴やウソがバレやすくなったに過ぎないのか。そしてそれは、専門家自体は何も変わってはいないが、人々が接する情報の質の変化によってもたらされた結果なのだろう。


「サイバー・デモクラシー」が醸成される為には、専門家以外の人々―それはつまり自分―が、自身で信頼に足る情報を見つけ出し、その情報に接することでしかなし得ないのだろうか。「反知性主義」では、知識人支配を拒絶し、知性と知識人への疑念が憤りへと結びつき、平等主義や所謂実践主義の重用となって表れるのであろうが、「反専門家主義」では正統性と権威への疑念を持ってはいるものの、体制への憤りへと繋がっていく部分は多くの領域で見られる訳ではない。政治的には、確かに似ていると言えなくもないのであるが。


正統性と権威の失墜というか脆弱化は、知識人たちに起因するものであり、ブログ参加者である人々に原因があるということでもないように思える。つまりは、独占的に情報を有していた旧来の専門家達は、一般大衆を欺き、煙に巻き、誤魔化し続けてきたに過ぎないのかもしれない。今後は大衆との情報の共有化が進んだとしてもなお、知性の発揮が可能な真の知識人としての専門家が求められることになり、欺瞞のない情報・意見の出せる人間が支持され得るのと同時に、そういう人間のみが正統性と権威を維持することが出来るのだろう。そんな知識人はどれほど存在しているのだろうか?「ブログ文化」(一応そういう名称を当ててみました)に根ざす「反専門家主義」に対抗できる程の、知識人とは果たして登場するのであろうか(笑)。


私も既に、こうした「反専門家主義」に感染した形跡がある(笑)。自然に侵されたのか、元来有していた個人的資質によるのか、はたまた、強力なブロガー(例えばアルファーブロガーなどと呼ばれる人々?)に感化されてしまった為なのか、よく分らない。今までに自分が専門家批判を繰り返してきた傾向があることを思い起こせば、このような「反専門家主義」は自然発生的に生ずるものであると思えるのだが。違うだろうか?


「サイバー・デモクラシー」の実現には、また一つ大きな障壁が判明したと言えるだろう。「反専門家主義」を乗り越えられる知性を期待しつつ、多くのブログ参加者にもそれが理解され、政治的姿勢が単なる著名人崇拝で終わらないように祈りたい(笑)。



「女王の教室」で泣いてしまう?

2005年07月25日 13時38分39秒 | 俺のそれ
録画してあったのを、家族で観ました。友人との信頼関係とか、疑いを抱く人間の本性・本音を子供達に投影して描き出しておりました。先日書いた「正義」や「信頼」というものについての記事にもちょっと関連していて、私の中ではタイムリーな展開でした。偶然テーマが一致してました。非常に深いドラマです。何かのキッカケがあれば、人間の浅ましさというか我が身可愛さみたいなのが出てしまいますね。「女王の教室」の原作はコミックなのでしょうか?

(お断りしておきますが、私はマスコミ関係でもありませんし、華やかなテレビ業界とも何の関係もないですよ。「ひょっとして、コイツは自作自演野郎なのか?単なるドラマ宣伝じゃないのか?」とか疑いをもたれるのも困りますし。単なる田舎暮らしのオッサンに過ぎませんから。)


「私もう泣きませんから」と言う「カズミ」ちゃんだったが、どんなに強がってもまだ小学6年生です。喘息持ちのお姉さんがまたいい味で、不覚にも泣いてしまいましたよ、私も家内も。
ウチの子は泣きませんでしたけれども。
来週の予告では、今まで以上に強烈な感じになっていきそうです。
アクツ先生がどうの、ということよりもクラスメート達が・・・所謂イジメでしょうか。


第4回まで進んで、少し分ったことがあります。
主人公の名前がカンダということは、「神田」でつまり「神」、アクツマヤで略して「悪魔」という対決構図ですね。
それと、頭の凄くいい少女、「シンドウヒカル」ちゃんは、偶然『ヒカルの碁』(漫画です)の主人公の少年と同じ名前です。とても賢いことから「シンドウ」は当然の如く「神童」を当てたものではないのかな?これも「神」vs「悪魔」ですね。
これに似てる名前が、「テンドウ」先生。「天童」ならばやっぱり「悪魔」に対抗する名前?です。お調子者の「ユウスケ」くんは・・・特に思い当たる名前じゃないな。普通のような気がします。

「カズミ」ちゃんのお母さんは毎回そそっかしくドジを踏むことになっており、敢えて「いい人だが、何も考えてない、暢気な女性」というようなキャラクターを強調しています(と、私は感じます)。その為に必ず、皿を割るとか、料理をこぼすとか、転ぶとか、ドジが描かれるのですね。


最後の結末がどうなるのか気になりますが、ひょっとするとアクツ先生はワザと酷い役回りを引き受けているんではないのかな、とも思ったりしています。何故なら、人間の「反応や行動のパターン、愚かさ、嫌らしさ」みたいなものを、気づかせることができるかどうかが重要なのだと思うからです。もしも6年3組の生徒たちがアクツ先生に「打ち勝つ」ことが出来るなら、それまでの自分たちの愚行が自覚出来るということになるような気がするのです。本当に大切なことに気づけなければ克服出来ないですし、それを知らしめる為に自ら「泣いた赤鬼」の赤鬼の役をアクツ先生が担っているとしたら・・・。ある種の権力に靡いていく一般大衆の愚かさ、自分に特権を与えられれば、より権力に同調していくという利己的な思考、そういう傾向が日本の過去の失敗を彷彿とさせるのです。アクツ先生が決める「ルール」とは「法」と同じような意味合いであり、大衆がそれを受け入れたりしなければとんでもない「ルール」は排除できるのに、「となり組」のような監視制度にも同調していくクラスメート達は、まさに「思う壺に嵌っている」のです。誘導を受けた生徒達が、元々拒否の意思を持ちながらも、次第に自ら進んでアクツ先生の決めた「ルール」に加担していることに気づかないのです。傍観者を決め込もうとする人間も、実は加担しているのと同じであると、自覚できないのです。


そんなことを思ったりしています。
次回も楽しみです。