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郵政決戦に備ふ(雌伏編)

2005年07月26日 18時20分28秒 | 政治って?
小泉さんは、信長の圧倒的に不利な戦いであった桶狭間の戦いに自身をなぞらえてインタビューに答えていたのだが、これを見たワタヌキ殿は早速信長の「覇道」に対抗して「王道会」を結成した(笑)。場外戦も中々面白いものである。小泉純一郎氏の心の内は読めるものではないのであるが、毎日新聞の岩見隆夫氏や松田喬和氏の記事をちょっと読んでみたら、何となく的外れな印象があったので、私が勝手に小泉さんになった積もりで考えてみようと思う。


これはあくまで物語であり、空想に過ぎません。なので、実在の人物等とも全く関係ありません。また、文献等で検討したりもしておりません。経歴等に誤りがあったとしても、これもまた想像の産物に過ぎません。(文中敬称略)


小泉純一郎が郵政大臣のポストに就いたのは、国会議員になってから丁度20年であった。年齢も50歳となる年であり、しかも祖父又次郎が逓信大臣を務めていたこともあって、感慨もひとしおであった。


父純也は改進党から当選を果たし、自由民主党誕生後には合流することとなり、防衛庁長官も歴任した。しかし、本流からは外れていたこともあり、政治家としての成功を収めることはかなわなかったのである。父純也は、政治家としての野心や器の大きさという点では、人並み外れたものを持ち合わせてはおらず、岳父又二郎の方が恐らく器量が上であると純一郎自身も考えていた。普通の父親という視点で見るならば、勿論純也のことが嫌いではなかったが、政治家として、或いは1人の男として見た時に、純一郎の心を揺さぶるような大人物ではなかったのだ。

純也の急逝によって留学先のロンドンから戻った純一郎は、選挙で父の基盤を引き継ぐことを求められ、当分の間は学生気分で留学を思う存分楽しもうと考えていたのに、降って沸いたような事態に直面し、その時点では政治への決意が全く欠けていたのだった。初選挙では、そうした政治への情熱も人を突き動かす気迫も全てが足りなかった。その為に落選の憂き目を見ることとなったのである。この時の経験は、後の人生に大きく役立つこととなったのであるが。当時は、父純也の死と、更に追い討ちをかけるような落選という、大きな失意を味わったのであった。純也の議席を失った自分に非常に大きな責任を感じ、「政治家として大成しない父」と思っていた自分を恥じた。又次郎の、そして純也の築き上げてきた政治基盤に、自ら泥を塗る事になってしまったことを、墓前で詫びる自分が余りにも情けなく思えた。


かつて長命であった祖父又次郎からは、昔の話をよく聞かされていたものだった。祖父は厳しい男であったが、既に高齢であったこともあり、純一郎には優しく昔話を聞かせてやったのだった。まだ10歳にも満たなかった純一郎には、又次郎の話は難しいことも多くて、十分に理解できないこともあったが、又次郎は政治の話よりも人物の話をよく教えたのだった。
「人は心を動かされなければ、人の為に命懸けで働こうとはしてくれない。昔、浜口という総理がいたんだがな、この男は・・・」
「若槻という、うそつき礼次郎とあだ名されたやつがいてな、総理になる前には・・・」


長話が苦痛になる時もあったが、純一郎は又次郎の話す人間達に愛着を覚えた。世の中で偉い人間と思われていた総理大臣の、意外な人間像に、子供ながら心惹かれたのであった。そうした記憶は、純一郎の政治家としての道を歩む時に、役立つこととなったのである。人の心は、いつの時代にも大きく変わることはない。人の心をいかに動かし、自分で行動できる強い信念を持てるか、実行する気力を維持できるか、そうしたことを又次郎の話す数々のエピソードの中から学んでいったのであった。



失意の中にいた純一郎は、又次郎の時代から小泉家を代々支援してきたある人物の紹介で、1人の政治家に会いに行くこととなった。書生として採用してもらい、政治家修行を願い出る為であった。その政治家とは後の総理、福田赳夫だった。純一郎は今までに厳しい環境に置かれて生活したことなどなかった。代々政治家の家系であったので、いわゆるボンボン然として生きてきた。しかし、現実は父の急逝によって地盤を引き継いだにもかかわらず、選挙では一敗地に塗れた。「それが選挙というものだ。」と知り、自分の甘さを呪ったのだった。それ故、書生として過す期間は、自分への修行の場と考え、どんな苦難にも耐え抜く決心をして福田に会いにいったのだった。


福田は、後援者の人物から「亡くなった小泉議員のご長男、純一郎君です」と紹介された青年を見て、「ああ、君があの小泉君の息子さんかね。お父さんは立派な人だった。おしい人をなくしたものだ。おじいさんも大した人だったがな。君も政治家になる積もりなのかね?」と聞いた。純一郎は「はい、父の遺志を継いで、父の果たせなかった分まで頑張ろうと思います」と答えた。「私はお父さんのように優しくはないぞ。厳しいが覚悟は出来ているかね」「はい、どのような困難も受ける覚悟です」「ならば、いいだろう。君を預かろう」
福田はそう答えると、後援者に微かに頷いた。福田の元での、修行生活の始まりであった。


福田は言葉通り、非常に厳しかった。失敗をすれば、政治家の息子であることなど微塵も意に介さず、叱責を受けることも度々であった。だが、一方では純一郎を可愛がってくれた。移動の時に汽車や車の中では、福田の話を聞かされることが多かった。政治家の信念も何度となく聞かされた。新年会などで人が集まれば酒の席を用意するのだが、そうした席上でも福田はよく「政治家というものは・・・」と同じ話をするのだった。又次郎の話を聞くのと非常に似ている気がしていた。聞き上手の純一郎には、福田に可愛がられる要素が既に出来上がっていたのかもしれない。福田と共に行動するうちに、政治家の人脈に驚かされたり、出入りする報道関係者達から裏話などもよく聞くことが多かった。殆どが、政治の舞台裏を見ていくこととなった。そして、政治・行政・業界などの日本を動かす裏側の仕組みについても理解できるようになって行った。福田は「政治家は自己の利に動いてはならない」とよく言っていた。父と改進党で一緒だった三木武夫にも時々会った。父と一つ違いの福田は、純一郎にとっては父親同然の存在に感じられ、また、6歳年上の長男康夫とも共に酒をよく飲んだりして、純一郎にとってはまさに兄貴のような存在であった。


純一郎が12月に初当選を果たした72年は、あの田中角栄が首相に就任し、列島改造論・中国訪問・日中国交回復となった年であった。選挙直前には福田家を離れていたが、田中角栄内閣誕生の舞台裏を全て見て知っていたことは、政界の仕組みを知る上では非常に役立つこととなった。純一郎は、この期間に耐え忍ぶコツを身に着けたのである。また、福田の政治思想に大きく影響を受けることとなった。純一郎にとっては、まさに「石の上にも3年」という期間であった。


これ以後、小泉純一郎はポストをこなして行き、88年に初めて大臣ポストに就任することになった。派閥論理の権化、竹下内閣での厚生大臣であった。遂に、有力政治家への階段を上り始めたのだった。


小泉は国会議員になって20年、宮沢内閣の時にやっと郵政大臣のポストが巡ってきた。父の就いた防衛庁長官よりも祖父又次郎の就いた郵政大臣の方を実は望んだのでいたのだ。長年心に秘めてきた「改革案」を実践しようと、大臣として勇躍乗り込んでいったのだが、そこで待っていたのは、かつて福田の家で学んだ「政治の舞台裏」の論理であった。折角尊敬していた祖父と同じ大臣になれたというのに、自分の考えを誰も聞こうとしなかった。官僚達からは「大臣1人で何が出来る」というあからさまな反発があり、郵政族議員達は派閥有力者達に根回しして、小泉の行く手を全て潰して回った。政治の舞台裏の仕組みなど20年以上前から見知ってきたのであり、そんなことは言われずとも熟知している積もりであった。その上で、大臣である以上、幾つかの改革案を実行することは当然と思って、郵政省に自ら進んで乗り込んでいった。しかし、行政府を動かすことが出来るのは、最大派閥の領袖であり、それか総理総裁にならねば無理なのだという当たり前のことに、初めて思い至った。


今まで20年以上も議員をやって、政治の表も裏も精通していたはずなのに。それなのに、今こうして、こんな壁に突き当たらねばならないとは。かつて又次郎が献身した由緒正しき「逓信―郵政省」が、今は族どもの喰いものにされ抵抗勢力の巣窟と化しているとは。政治を変えなければならない。こやつらを、のさばらせることは出来ない。誰かが変えなければ・・・私が変えなければならない・・・

派閥の、族議員達の、官僚達の、抵抗勢力を排除する力が必要だ。それは―大衆しかない。それを打破出来る力は、恐らく「世論」しかない。大衆が動く時は必ずある。又次郎はそう教えてくれた。歴史は、そうだった。必ずその時が来る。


父が亡くなった、20年以上前のことが思い出された。同時に、三木や福田のことが思い出された。田中角栄を追い落とすことが出来たのは、ロッキード事件があったからだ。浜口内閣の前だって、田中義一が張作霖事件で退陣した。若槻内閣の最初の失敗は金融恐慌だった。バブルが崩壊した今、きっとチャンスが巡ってくるはずだ。それを待つ。加藤も浜口も(大平も、そして親父も)途中で倒れた。人間というのは、いつ死が襲うのか分らないものなのだ。又次郎はそう語っていた。そして、大衆が動く時を待つ。
耐えて勝つ。今は忍従しかない。
「我に天賦、天命あれば、必ずや時が来たりて勝利する」
そう信じよう。


秀吉に例えられていた田中角栄を思い出し、小泉は自らの立場を考えてみた。戦国時代、勢力で言えば武田、上杉などと比べて足元にも及ばなかった信長は、大方の予想を覆し、今川義元に勝ち、最も京に近づいた男だ。角栄が秀吉ならば、自分は信長になろう。「傾ぶき者」となろう。「大うつけ」でよい。



誓いを立てた小泉は、自民党総裁選に打って出る準備を始める。これに選ばれねば、何も変えられない。ひたすら耐える。流れが来るのを待ちながらも、正体を見せないようにする。やる気があるように見せて、投げ出すそぶりを見せる。言うことを聞いているふりをしつつも、突然独断専行。当たり前の正論、熱い理想しか語らない。総裁選には2度チャレンジしたが、その度に破れ去った。派閥原理には勝てなかった。しかし、手ごたえを掴みつつあった。それは、最初の何も得られなかった時に比べれば、同志が増えた。ひょっとすると、次に期待できるかもしれない・・・。


あの後、小渕さんが途中で倒れ、森さんが総理になれたしな。本当に、何が起こるか分らないのだ、政治の裏は。森さんは5人組でしか担がれなかったが、自分は大衆に担いでもらう。派閥の力を無力に出来るのは、大衆しかないからだ。派閥に担がれれば、派閥によって必ず潰される。それではダメだ・・・。


そして遂に、そのチャンスが訪れることとなった。国民は政治の無意味さに飽き、政治家への不満は頂点に達していた。リストラ、借金、生活苦・・・国民生活の惨状は、「大うつけ」登場を期待する背景としては格好の状況を作り出していたのだった。大衆が動く時を待ち続けた甲斐があった。01年4月、遂に祖父も父も辿りつけなかった内閣総理大臣に就任することになったのである。


「自民党をぶっ壊す」
この言葉に、小泉純一郎の「うつけ」ぶりが示されているのである。小泉は自民党に愛着がないかの如く思われている節があるが、彼はそんな男ではない。存外信義に厚い男であり、父や福田赳夫が残した自民党を消滅させようとか、野党転落でもよいなどとは考えていない。恩義を忘れる事もない。又次郎の話に聞いていた過去の政治家達を忘れることもない。教えを請うた、福田や父とともに過した三木などを記憶の彼方へと押しやることもない。実は、2世3世議員には自分と同じような感覚を投影し、他の連中も同じような感覚を有していると思い込んでいるか、敢えて相手にもそれを求めているのである。福田、麻生、安倍、田中真紀子などには、そうした傾向があったのではなかろうか。つまりは、小泉の自民党に対する愛着はむしろ強いのである。


福田赳夫に恩義を感じていたからこそ、安倍晋三を幹事長に引き上げた。兄貴分の康夫さんには、自分の「兄貴」として官房長官に就いてもらった。吉田茂を祖父に、岳父に鈴木善幸を持つ麻生にも、「秀吉」の娘である真紀子にも、脈々と引き継がれてきた自民党の系譜を見出し、その力を分散配置することで派閥原理の抑制均衡を図ったという意味なのではなかろうか。


毎日の岩見氏が書いているのは、小泉評が百人百様で、定まらないと。
それは「大うつけ」を決めたからか、若しくは本当の「大うつけ」だからかの、どちらかであろう。


(続く)

追記:「田中義一」が「田中一義」となっていました。お詫びして訂正致します。無学がバレてしまいました(恥)昔、日本史は習いましたが、受験科目にしなかったので(と、言い訳・・・) 8月2日