内閣総理大臣に就任した小泉純一郎は、「郵政改革」を本丸と位置付けた。だが、他の政治目標というのは案外音痴で、特に経済・財政分野に関しては、素人同然と言ってもよかった。しかし、小泉はある特定の考えを持っていた。それは子供の時から、教わってきたことであり、それまでの人生の中で得た知恵でもあった。
又次郎はかつて、純一郎に次のように語った。
「人の観察をよくすることだ。ウソをついてる奴は直ぐに判る。博打で大勝負が懸かった時にも、負ける奴は同じように判る。いつも人をよく見ることだ。そうすれば、勝負が読める。そして読めない奴は、常に負ける」
小泉は、総理大臣就任以前から十分観察していた、議員達の人物評を頭の中に思い浮かべた。昔、福田家に居候していた時に、よく訪れていた政治家達、記者連中が語っていた決して記事には載らない人物評価やこぼれ話、そういう情報はよく知っていた。小泉はそういう才能だけは優れている面があったのである。
学生時代から、勉強はそれほど得意でもなく、頭の切れも良かった訳ではない。だが、又次郎の語っていた通り、政治の世界は人間同士の勝負・いくさと何ら変わりないことを熟知していた。勝負を読みきる為の、人間観察には十分な眼力を養ってきたのだった。そういう才は恐らく又次郎譲りであったのかもしれない。
小泉は初めての厚生大臣就任前に、実は大蔵省のポストに就いたことがあった。だが、実力の方はさっぱりで、単なる「飾り物」同然で終わってしまった。周囲の評価も「小泉には、財務は任せられない(笑)」という冷ややかなものであり、「切れは悪いな」という印象だけが残った。それより何より、小泉自身が「二度と財政には関わりたくない」と思えるほど、大蔵省の仕事には興味もなくかえって嫌いになった。それ故、又次郎の教えや培ってきた知恵を必要とすることになるのであった。
その一つが、「歴史を紐解け」。これは又次郎がよく言っていたことであった。歴史に大きなヒントが隠されているのだ、と。先人達の知恵を使うのが、「政治の上策」であると考えていたのであった。もう一つは、「よい軍師を持て」。歴史上の人物には、よい軍師が付いていた。なので、自分が総理になったら必ず軍師ポストを置こうと考えていた。特に自分の大嫌いな経済財政分野を任せられる人材を。人材登用に関しては、ロンドン留学時代に英国議会を見ていて思うところが既にあったのだ。それは大臣たちは、総理の手足になれる人材を必ず登用するべきだ、ということであった。従って、派閥による大臣ポストの調整などは愚の骨頂と考えており、派閥政治打破を目指す小泉にとっては大臣を自分で選ぶことが当然なのであった。大臣ポストの人事権によって派閥抑制を優先することは、小泉にとって無意味であったのだ。だが、全く無視することも出来ない面があることは知っており、一部の面子を立てるだけの為に大臣を選んだ部分はあっただろう。それが時々「頓珍漢人事」となり、無能大臣を生んでしまう原因でもあったのだが。
それと、小泉の総理就任以前から政府内に一種の「経済マフィア」が存在しており、その系譜に沿う形で人材登用を行うつもりだった。日銀・大蔵路線と対抗する勢力の「経済マフィア」はそれまでよりも勢力を拡大しつつあった。かつては常に大蔵には敵わなかったのであるが。そういう「経済マフィア」の連中は、大蔵官僚達からは無能視されるか、敵視されるかだったのだ。そこにも風穴を空けようとしたのが、小泉だった。大蔵支配を弱めることが、行政に必要だと思っていたのだ。勿論、大蔵時代の恨みということではない(はずだろう)。
そこで白羽の矢が立ったのは、「竹中半兵衛」ならぬ竹中平蔵だった。小泉はこうした「軍師」を髣髴とさせる竹中の名前に、まるで子供のように喜んだのだった。竹中に大臣就任を要請した時には、「竹中さん、私の軍師になってくれないか。必要とあらば、三顧の礼でお迎えしよう」とシャレを言ったのだ。竹中は「日米協議」以来、政府内の「経済マフィア」の一員であったため、自分が思い描く「行政府」「経済財政理論」を実践してみたいとも考えていたのだった。まさに渡りに船。小泉の最も苦手とする分野を担当する軍師。
「是非お引き受けしたい」竹中は答えた。
又次郎はかつて、純一郎に次のように語った。
「人の観察をよくすることだ。ウソをついてる奴は直ぐに判る。博打で大勝負が懸かった時にも、負ける奴は同じように判る。いつも人をよく見ることだ。そうすれば、勝負が読める。そして読めない奴は、常に負ける」
小泉は、総理大臣就任以前から十分観察していた、議員達の人物評を頭の中に思い浮かべた。昔、福田家に居候していた時に、よく訪れていた政治家達、記者連中が語っていた決して記事には載らない人物評価やこぼれ話、そういう情報はよく知っていた。小泉はそういう才能だけは優れている面があったのである。
学生時代から、勉強はそれほど得意でもなく、頭の切れも良かった訳ではない。だが、又次郎の語っていた通り、政治の世界は人間同士の勝負・いくさと何ら変わりないことを熟知していた。勝負を読みきる為の、人間観察には十分な眼力を養ってきたのだった。そういう才は恐らく又次郎譲りであったのかもしれない。
小泉は初めての厚生大臣就任前に、実は大蔵省のポストに就いたことがあった。だが、実力の方はさっぱりで、単なる「飾り物」同然で終わってしまった。周囲の評価も「小泉には、財務は任せられない(笑)」という冷ややかなものであり、「切れは悪いな」という印象だけが残った。それより何より、小泉自身が「二度と財政には関わりたくない」と思えるほど、大蔵省の仕事には興味もなくかえって嫌いになった。それ故、又次郎の教えや培ってきた知恵を必要とすることになるのであった。
その一つが、「歴史を紐解け」。これは又次郎がよく言っていたことであった。歴史に大きなヒントが隠されているのだ、と。先人達の知恵を使うのが、「政治の上策」であると考えていたのであった。もう一つは、「よい軍師を持て」。歴史上の人物には、よい軍師が付いていた。なので、自分が総理になったら必ず軍師ポストを置こうと考えていた。特に自分の大嫌いな経済財政分野を任せられる人材を。人材登用に関しては、ロンドン留学時代に英国議会を見ていて思うところが既にあったのだ。それは大臣たちは、総理の手足になれる人材を必ず登用するべきだ、ということであった。従って、派閥による大臣ポストの調整などは愚の骨頂と考えており、派閥政治打破を目指す小泉にとっては大臣を自分で選ぶことが当然なのであった。大臣ポストの人事権によって派閥抑制を優先することは、小泉にとって無意味であったのだ。だが、全く無視することも出来ない面があることは知っており、一部の面子を立てるだけの為に大臣を選んだ部分はあっただろう。それが時々「頓珍漢人事」となり、無能大臣を生んでしまう原因でもあったのだが。
それと、小泉の総理就任以前から政府内に一種の「経済マフィア」が存在しており、その系譜に沿う形で人材登用を行うつもりだった。日銀・大蔵路線と対抗する勢力の「経済マフィア」はそれまでよりも勢力を拡大しつつあった。かつては常に大蔵には敵わなかったのであるが。そういう「経済マフィア」の連中は、大蔵官僚達からは無能視されるか、敵視されるかだったのだ。そこにも風穴を空けようとしたのが、小泉だった。大蔵支配を弱めることが、行政に必要だと思っていたのだ。勿論、大蔵時代の恨みということではない(はずだろう)。
そこで白羽の矢が立ったのは、「竹中半兵衛」ならぬ竹中平蔵だった。小泉はこうした「軍師」を髣髴とさせる竹中の名前に、まるで子供のように喜んだのだった。竹中に大臣就任を要請した時には、「竹中さん、私の軍師になってくれないか。必要とあらば、三顧の礼でお迎えしよう」とシャレを言ったのだ。竹中は「日米協議」以来、政府内の「経済マフィア」の一員であったため、自分が思い描く「行政府」「経済財政理論」を実践してみたいとも考えていたのだった。まさに渡りに船。小泉の最も苦手とする分野を担当する軍師。
「是非お引き受けしたい」竹中は答えた。