いい国作ろう!「怒りのぶろぐ」

オール人力狙撃システム試作機

ある人の死

2005年07月24日 23時51分16秒 | 俺のそれ
暫くネットもテレビも観れなかったのですが、関東は大きな地震があったのですね。知らなかった。先ほどテレビ映像で見ましたが、物凄い数の人々が駅などに足止めとなったんですね。東京は本当に人が多いんですね。目が回りそうです。人に酔ってしまいそうです。私は満員電車にも人生で数度しか経験したことがないのですが(東京に行った時に経験しました)、とても毎日は耐えられそうにないです。極々稀にデパートなどに買い物に行った時に、ちょっと人ごみになっている程度ですら、1時間と耐えることができません(笑)。東京に住んでお仕事をされたりしている人達は、尊敬に値します。よくもあのような苦行僧の如き生活を辛抱しておられるな、と本当に感心します(そういう人々がいてくれなければ、私たちの生活が成り立っていないのですから)。


実は、ある身近な人が亡くなって、葬儀に行っていました。高齢の方で、十分人生をまっとうされたのではないかと思いました。人の死に接する時、自分の身に必ず訪れる、また誰にでもやってくる死について、現実感が沸いてきます。普段目にすることの少ない、他宗派のお経とか仏事について知ることもでき、ある意味勉強になります。


冷たい物質塊となった肉体と生命の境界は、私には未だによく理解できません。細胞一つひとつが直ぐに死滅するわけでもないのに、生体全体としては「調和」とか「統合」を失い、「機能」しない状態となってしまうのだろうと思いますが、小さな範囲―組織とか細胞レベルのような―で個々に機能しても死を止めることが出来ないのです。国も似たようなイメージで、個人がバラバラに存在しても調和を失っているならば死んでいるのと同じようなもので、「死んでいる国」というのはシステムが存在せず、「意思」も生まれない、ということなんだろうと思います。

でも、何だか不思議。


亡くなった方は、戦争で職業軍人として満州に行ったそうですが、生きて帰国されて勲章を受け、事業を興し、それなりに成功されたようです。ですが、ご自身の子供は先に亡くなられたのだそうです。人間の一生というのは、本当にドラマのようです。まさに邯鄲の夢なのですね。


十年以上にわたる戦争経験は、私には想像もつきません。本人にしか分からない、体験があったはずです。同じ時間を失ってみなければ、分からないのだろうな、と思います。平和に生きる今の時代に感謝するとともに、こうした先人達の築いた歴史が、今の日本を作ってきたのだと感じます。私の今後に残された人生で、一体何ができるのか、私にはよく分かりません。自分の死を迎えた時に、私の人生が分かるのかもしれません。