私は今、凄く後悔しています。何故なら、この法案のせいで(そんなオーバーではありませんが、笑)読むべき記事の量が増えたり、小難しい法律用語などを理解しようと努めたり、さして意味があるのか判らないような自分の記事を何本か書かねばならなかったからです。こんなに書いてしまうとは思いませんでした。回答を頂いたり、コメントを頂いたので、考えを書いてみます。
読んでいたのは、
小倉先生、
an_accused さん、
bewaad さん、
高田氏の記事についてで、他の反対派の記事とかは調べるのも面倒ですし、コメント欄に書き込まれているのを読めば、概ね反対の論点は察しがつきました。掲示板は利用したことがないので、2chは見にいったりしません。怖いところみたない感じがありますし(笑)。
bewaad さんが反対派の大勢を占める論拠について、ある意味「辟易」というか「嫌悪感」を示しておられたので、なる程小倉先生のところのコメント欄にたくさん書かれていたものを見ていた私も、そういう感情になるのは理解できます。私も「疑問派」(とは言うものの、ほぼ反対派ですね、でも他の人達と同じ感じ方ではないかもしれません)ですが、産経新聞の論調や自民党部会での反対意見では主に「人権・人権侵害の定義が不明確」「国籍条項の有無」といったものが出されており、これと自分が同じ反対派というのも何だか嫌な感じがしました。しかし、結果的に「反対派」なのであり、単に賛成・反対で分ければ同じ仲間ということになります。でも仕方がありません。素直に「賛成!」とは言い難いのですから。
私はブログと出会って、自分の意見表明の有効な手段と思えるようになりました。非力な個人であり、特別の知識や、社会的立場や、多くの人を納得させられるような立派な言説も持ち合わせていませんが、凡庸な自分にも少しは訴えることが出来る方法があれば、それを最大限生かしたいと思うのです。これを可能にしてくれるのは、「言論の自由」以外にはありません。こんな私が政府や政党や議員達や行政組織やマスコミといった、権力構造を構成するものを公然と批判したりできるのは、言論の自由が確保されているからこそ可能なのです。これが法令によって規制されうるとするならば、当然の如く反対します。小倉先生やbewaad さんは「そういう心配はないんですよ」ということを法案の条文やその他の法令と法解釈等から詳細に検討・説明されておりますが、自分やマスメディアの「言論」を委ねる対象としては行政は余りに心許ないのです。法解釈における行政の恣意的運用については、信頼性が低いと感じる出来事が多いと思っており、その主張を記事に書いてきたからということもあるかもしれません。
一方、法案作成については、性善説的立場から条文作成が行われるということも理解できます。何故なら、法を悪用することを意図・想定して立法されることは通常ないからで、犯罪などではそうした抜け穴を衝かれてしまったりするし、罰則の有無や強制的権限の有無などで抑制的作用も期待できないことも少なくないからです。そういう意味においては、一定の強制力を発揮しうる法の存在というのも必要になることはあると思います。
人権という非常にデリケートな問題を扱い、しかも表現の自由についての規制を行うということになりますと、これは関心が高まることも無理からぬことで、たとえ法案の誤読や不十分な理解(小倉先生の記事にあった古川議員はその典型的な例と言えるでしょう)があるとしても、法律家ばかりではない一般国民の反応としては必ずしも非難されるものとも思えません。むしろ、そういった説明を十分行わなかったことが行政府の落ち度でもありましょう。こと人間の「気持ち」「心」といった領域に行政や法が関与するということは慎重さが求められても当然であるし、行政側が国民の誤解を防ぐ努力をすることは義務でありましょう。
それならば、人権擁護法案をいきなり出さずとも、他の権利関係法令から(例えば男女雇用機会均等法などですね・・・)啓蒙活動を地道に行うとか、もう少しマイルドな、例えば「人権擁護宣言」のような法的規制を示さずに多くの国民に周知できる方法をとって「地ならし」してみることも出来たでしょう(「人権擁護委員2万人」への明らかな誤解がそのいい例でしょう。無知故に私も全く知りませんでした)。ある程度の国民理解を得て、現状の問題点を顕在化させた上で、「ならば法が必要ですね」という合意が得られる道筋ならばここまで紛糾することもなかったかもしれません。現状で多くの反対派が叫んでいることは、必ずしも正当とも言えない理由はたくさんありますが、これを上回る国民のコンセンサスが形成されていれば、おかしな反対意見を声高に叫ぶ方がはるかに「異端的意見」なのだな、とはっきり判るでしょう。過激な反対論も抑制されたかもしれません。
差別の問題は、ほぼ「心」の問題であると思いますので、最終的にはそこに働きかけることが必要と思います。そういう社会的風潮を醸成できる活動、施策が好ましいと思うのです。もちろん、触れたくない問題というのもあるかもしれません。知らなければそういった差別が助長・強調されることがなかったのに、問題を表面化させることでそれが起こってしまうということです。これについては、被害の当事者の意思を尊重するよりなく、代表的な被害者団体等の意見を採用してみるくらいしか思い浮かびません。そういう団体が「現状を是非広く公表して欲しい」ということであれば、そのように取り扱うのかな、と思います。このような基礎固めを行って、国民に法案の必要性を認識してもらうことができるならば、結果として「立法すべきでしょう」という意見が多くなったかもしれませんね。
報道では、bewaad さんが書かれていたように、弁明機会の附与や不服申し立てについては法務省が検討しているとされていました。個人の拙い意見ではありますが、やはり表明してみることは意味があります。これで法案がどうなるのかは、判りませんが。
別記:
本題とは関係ありませんが、bewaad さんの回答にありました、「会計検査院の道警調査について」のソースですが、例示頂いた検査院の報告書に経過が記載されておりました。検査院は不適切な会計処理(偽造に関しても)についてははっきりと指摘していますが、警察庁はこれに「激しく」抵抗したのだろうと思います。検査官会議では、当然の如く「意見表明すべきであり、報告にも入れる」という立場だったのでしょうが、現実的にはこれ以上は「踏み込めなかった」のだろうと思います。法律上も、条文の解釈上も、法に従い措置をとることは可能なのに、です。折角の独立・公正な「権限」を有していながら、省庁の抵抗には対抗できない「権限」であると言えましょう。こんなことが「会計検査院法」の趣旨とは到底思えないのです。最も非難されるべきは、警察庁の組織であることは間違いないのですが。
やはり、法の精神、立法趣旨というのは私のような者には理解できませんね。私は今まで法学とか法律とかを勉強したことがないので、基本的な理解が不足しています(高校の時に習った憲法くらいですね、笑)。法とは一体何なのか、といつも感じてしまいます。法は何人にも平等なんかではありません、少なくとも私はそう思っています。法の論理がどんなに正しくても、法は「正義」そのものでもありません。「正義」は人間の心の中にしかないのです。法には正義が宿ったりはしないのです。
過去記事:
人権擁護法案擁護論への疑問1
人権擁護法案擁護論への疑問2
人権擁護法案擁護論への疑問3
人権擁護法案はどうなるか
人権擁護法案はどうなるか2
人権擁護法案はどうなるか3
人権擁護法案はどうなるか4
人権擁護法案はどうなるか5