色々な寺院がある町がある。その宗派はそれぞれ不明であるが、外見上の作りや中に入ってみるとそこに祀られている御神体とか彫像といった目安となるものがあるし、宗教的教義のようなものも書いて貼ってあるので、そこの責任者が何を信じ、布教しているか判るのである。察しが良ければ、すぐに見当がつく。
寺院を訪れる人々は、自分と同じ信仰を求めていることもあるし、他の宗派に興味を抱いている場合もあるし、他宗派の研究や逆に教義に反対する場合もある。単に寺院の中の構造や祀られたものを見たいとか、寺院に飾られた装飾品に興味があることもある。管理責任者(住職とか司祭とか神主とか・・・)に興味がある場合や前からの知り合いとか、住職の説教が面白くて気に入っているということもある。まあ、何にせよそういう寺院がたくさんあって、そこを訪れる人々もたくさんいるというわけだ。
その町に、とある寺があった。名前は・・・とりあえずA寺としよう。その住職はBといい、細々寺を運営していた。
Bはある時、深い山の奥で数日間道に迷い、死ぬ覚悟を決めたことがある。
もうダメかと思って、Bがお経を唱え、「何とか助けて欲しい」と天に願った、まさにその時に、山の斜面に沿って、こぶし大の石がコロコロと落ちてきた。石の転がっていく方を見ていると、崖下に転がり落ちていった。その下の方に目をやると、小さな小さな川があり、その川に石はぼちゃんと落ちた。Bは小川に降りて、石を拾い上げ懐にしまった。「きっと川を下れば、町に戻れる」そう思い、小川の水を手ですくって飲むと、不思議と元気が湧いてきた。そうして、山奥から生還できたのである。寺に戻ったBは、転がり落ちてきた不思議な石には、きっと天が助けを差し向けた神が宿っているに違いないと思い、寺に祀ることにした。
仏像とは別に祭壇を作り安置しておいた。すると、ある時、お参りにやってきた町人(まちびと)が石を発見した。町人はBに尋ねた。
「これは何か」
「不思議な石なのです。この石には神が宿っておる」
「まことか。何故わかる」
「非常に不可思議な体験で、神の所業としか思えない」
「・・・」
後日、徐々に噂が広まり、A寺には「神の石」があるらしい、ということで、多くの町人が寺を訪れた。
「どれどれ」「本当に神が宿っているのかな?」「うそっぽいよね」
町人達がBに尋ねた。
町人1「この石に神が宿りし証拠はあるか。あるなら見せてほしい」
B「特に証拠というものもござらんのだが、きっと単なる偶然などではない」
町人2「ただの石ころにしか見えんがのう。なぜ宿ると思うた?」
住職「かくかくしかじかで・・・・・・」
町人3「なるほど、だがそれは、真実かどうかわからんのう」
B「私は信じておりますが故に、こうして祭壇をつくり祀っておるのです」
町人4「住職の不思議な体験を証明できるかのう?」
B「いや、それも証明するべきものもござらん」
町人はさらに増えてきた。口々にBに聞いている。
寺の中は、町人だらけで、いつも参拝に来ていた人たちも困った様子。
「本当かよ」「うそじゃねー?」「そんな体験あるかな?」「証拠見せろよ、証拠」
「何で宿ってるって、わかるんだ?」「科学的に証明してみろよ」「神って何?」
「神なんていないんじゃねー?」「偶像崇拝は禁止だろう?」「仏像はいいのかよ」
「本当に仏教なのか?」「おかしな宗教はやらすつもり?」「電波だ、電波」
「きゃははー」「神学的な立場ではどうよ?」「仏教と神道はちがうなー」
「多神教とはどう違う?」「石の地蔵もありだろ」「地蔵は魂があるのか?」
・・・・・・
Bは困り果てました。多くの町人を納得させられそうにもありません。
そこで、「明日、もう一度、この石について、発表することにする」と言いました。
「なんだよ、答えねーのかよ」「おれの質問は普通だろ?」「まあゆっくり考えてみたら」
「誠実さが欠けてるな」「普通答えられないよね」「どうせ、デタラメだよ」
・・・
次の日、Bは自分の不思議な体験を町人達に語り、石には神が宿っているとしか思えない、ということを告げました。すると、多くの町人達は反対しました。
「どうして、それで神が宿るんだよ」「神なんていないんだよ」「キリスト教だけ信じればいいんじゃない?」
「石はいつまでも石だろ」「非科学的なんだよ」「どこの経典に書いてあったんだ?」
「他の宗派で、石を祀っている寺はあるのか?」「どうして断定できる?」
「隣町で寺院をやっているものです。かつてX経典、Y書やZ伝では自然に宿る神と既存の信仰対象についての論争があり、所謂神と見なされる~~~ということで、このような石には宿らないというのが定説ですが、これに反論はありますか?認めますか?どうです?」
・・・・・・いつまで経っても終わりません。
そこで、Bは「私は石に神が宿ることを信じてる。これが嫌という人は、A寺に来ないで他の寺院に行けばよい。」と言いました。
すると、町人達は、
「何だよ、ここは参拝自由、って書いてあるだろ」
「自由に入れるのに、何で来ちゃいけない?」
「だったら、最初から参拝禁止しときゃいいだろ」
「こっちが親切に教えてるんじゃないか、石は石だって」
「経典に基づいて正しい教義を教えてやってるんだよ」
「何で、石には神がいない、って認められない?」
「論理的じゃない、って皆言ってるでしょ」
「Bの考え方は、絶対に間違ってる」
「証拠もないのに、神が宿るってよく言えるな」
「論破された、って認めろよ」
・・・・・・
Bは、町人達に言いました。
「この町にはたくさん寺院があるから、そっちに行けばいいじゃないか。それに、隣には竜の頭が祀られた新興宗教のC寺院があるし、向かいには紙で出来た御神体を祀っているD寺院もある、もう一つ向こうには、木で出来た像を飾ってあるE寺院もあるじゃないか。そっちには、どうして神はいないとか非科学的とか言わないんだ?経典見せろとか証拠出せとか何故言わないんだ?それに参拝に来た人全てに、私が答える義務もないよ」
町人達はまた言いました。
「ここの住職に問題があるんだよ」
「答え方が悪いのさ」
「自分が間違ってるのに、何故改めようとしないんだ」
「誤解を招くことを言うからだよ」
「都合の悪い質問にはスルーかよ」
「誰も見えない所に祀ればいいんだよ」
「すり替えだな」
「既に論理破綻」
「出たー、勝利宣言ー」
・・・・・・
Bは本当に困ってしまいました。自分を助けてくれた不思議な石を祀ったら、大勢の町人達がやってきて、「これはなんでもない、タダの石だ」と言う。しかも、Bが「考えを変える」と言うまで、町人達は連日やってくる。今まで、ちっともきやしなかったのに。
全員がこの石に神が宿ると思ってくれなくとも構わない、これを信じてくれる人だけが参拝してくれればいいのに。
町人達は、考えが甘いとか石を隠せとか言うけれど、自分の寺なんだから何処に祀ろうと勝手じゃないか。
だいたい、反対する町人達はウチの寺には来なきゃ済むだけなのに、どうしてそれが理解できないのかな。
町人達は私の考えを変えさせることで、何を望むのだろう?目的は何だろう?
「この石に神が宿ると思ったことは間違いでした」ってことを認めさせるのが、そんなに嬉しいのかな?
この論争の先には、何があるのだろう?
たとえ私が認めたとしても、C、DやE寺院もあるのに、町人達はこういう運動をしに、全部を回るつもりなの?
頭が悪い連中ほど、人の言い分を見極めることが出来ない。
自らの正当化された考えを、他人に押し付けようとするんだろうな。
「信じている」という人間に、それ以上の意見が無意味なことにどうして気付かないのだろう?
「神の石」を信じるかどうかは、参拝に来た人間が決めればよいことであるのに。
もしも、「真実」を知っているなら、再び石を見に来る意味がないことも当然だろう?
Bはあれこれ考え抜いた末、A寺を閉めることにしました。何故なら、自分の命を救ってくれた不思議な石を粗末にするわけにもいかないと思ったし、自分の考えを捨てることも変えることも出来ないと思ったからです。こうして、無駄な「神の石」論争は終結しました。
町人達は何を得たのか?「あの石には神は宿っていなかった」という結論?でも、それなら、信じない多くの町人達が「あの石には神は宿っていない」という考えを持つことと、A寺には行かないことで、十分に達成されるはず。それとも、A寺を廃墟にすることで、そうならなかったらA寺に訪れる何も知らない人を、「神の石」という迷信から救うこと?町人達は、迷信防止のパトロール隊なのだろうか?真実のみを求め、それを見ず知らずの人々に広めて歩くという宗派の伝道師なのか?町の何処かに告知板を建てて、「A寺の石には神が宿っていない」と町の人々に告知するだけでいいのでは?その告知板を信じるか、Bの主張を信じるかは、町の人達が決めるのではないだろうか。得たもの―それは、単なるA寺の廃墟だけだ。
寺院を訪れる人々は、自分と同じ信仰を求めていることもあるし、他の宗派に興味を抱いている場合もあるし、他宗派の研究や逆に教義に反対する場合もある。単に寺院の中の構造や祀られたものを見たいとか、寺院に飾られた装飾品に興味があることもある。管理責任者(住職とか司祭とか神主とか・・・)に興味がある場合や前からの知り合いとか、住職の説教が面白くて気に入っているということもある。まあ、何にせよそういう寺院がたくさんあって、そこを訪れる人々もたくさんいるというわけだ。
その町に、とある寺があった。名前は・・・とりあえずA寺としよう。その住職はBといい、細々寺を運営していた。
Bはある時、深い山の奥で数日間道に迷い、死ぬ覚悟を決めたことがある。
もうダメかと思って、Bがお経を唱え、「何とか助けて欲しい」と天に願った、まさにその時に、山の斜面に沿って、こぶし大の石がコロコロと落ちてきた。石の転がっていく方を見ていると、崖下に転がり落ちていった。その下の方に目をやると、小さな小さな川があり、その川に石はぼちゃんと落ちた。Bは小川に降りて、石を拾い上げ懐にしまった。「きっと川を下れば、町に戻れる」そう思い、小川の水を手ですくって飲むと、不思議と元気が湧いてきた。そうして、山奥から生還できたのである。寺に戻ったBは、転がり落ちてきた不思議な石には、きっと天が助けを差し向けた神が宿っているに違いないと思い、寺に祀ることにした。
仏像とは別に祭壇を作り安置しておいた。すると、ある時、お参りにやってきた町人(まちびと)が石を発見した。町人はBに尋ねた。
「これは何か」
「不思議な石なのです。この石には神が宿っておる」
「まことか。何故わかる」
「非常に不可思議な体験で、神の所業としか思えない」
「・・・」
後日、徐々に噂が広まり、A寺には「神の石」があるらしい、ということで、多くの町人が寺を訪れた。
「どれどれ」「本当に神が宿っているのかな?」「うそっぽいよね」
町人達がBに尋ねた。
町人1「この石に神が宿りし証拠はあるか。あるなら見せてほしい」
B「特に証拠というものもござらんのだが、きっと単なる偶然などではない」
町人2「ただの石ころにしか見えんがのう。なぜ宿ると思うた?」
住職「かくかくしかじかで・・・・・・」
町人3「なるほど、だがそれは、真実かどうかわからんのう」
B「私は信じておりますが故に、こうして祭壇をつくり祀っておるのです」
町人4「住職の不思議な体験を証明できるかのう?」
B「いや、それも証明するべきものもござらん」
町人はさらに増えてきた。口々にBに聞いている。
寺の中は、町人だらけで、いつも参拝に来ていた人たちも困った様子。
「本当かよ」「うそじゃねー?」「そんな体験あるかな?」「証拠見せろよ、証拠」
「何で宿ってるって、わかるんだ?」「科学的に証明してみろよ」「神って何?」
「神なんていないんじゃねー?」「偶像崇拝は禁止だろう?」「仏像はいいのかよ」
「本当に仏教なのか?」「おかしな宗教はやらすつもり?」「電波だ、電波」
「きゃははー」「神学的な立場ではどうよ?」「仏教と神道はちがうなー」
「多神教とはどう違う?」「石の地蔵もありだろ」「地蔵は魂があるのか?」
・・・・・・
Bは困り果てました。多くの町人を納得させられそうにもありません。
そこで、「明日、もう一度、この石について、発表することにする」と言いました。
「なんだよ、答えねーのかよ」「おれの質問は普通だろ?」「まあゆっくり考えてみたら」
「誠実さが欠けてるな」「普通答えられないよね」「どうせ、デタラメだよ」
・・・
次の日、Bは自分の不思議な体験を町人達に語り、石には神が宿っているとしか思えない、ということを告げました。すると、多くの町人達は反対しました。
「どうして、それで神が宿るんだよ」「神なんていないんだよ」「キリスト教だけ信じればいいんじゃない?」
「石はいつまでも石だろ」「非科学的なんだよ」「どこの経典に書いてあったんだ?」
「他の宗派で、石を祀っている寺はあるのか?」「どうして断定できる?」
「隣町で寺院をやっているものです。かつてX経典、Y書やZ伝では自然に宿る神と既存の信仰対象についての論争があり、所謂神と見なされる~~~ということで、このような石には宿らないというのが定説ですが、これに反論はありますか?認めますか?どうです?」
・・・・・・いつまで経っても終わりません。
そこで、Bは「私は石に神が宿ることを信じてる。これが嫌という人は、A寺に来ないで他の寺院に行けばよい。」と言いました。
すると、町人達は、
「何だよ、ここは参拝自由、って書いてあるだろ」
「自由に入れるのに、何で来ちゃいけない?」
「だったら、最初から参拝禁止しときゃいいだろ」
「こっちが親切に教えてるんじゃないか、石は石だって」
「経典に基づいて正しい教義を教えてやってるんだよ」
「何で、石には神がいない、って認められない?」
「論理的じゃない、って皆言ってるでしょ」
「Bの考え方は、絶対に間違ってる」
「証拠もないのに、神が宿るってよく言えるな」
「論破された、って認めろよ」
・・・・・・
Bは、町人達に言いました。
「この町にはたくさん寺院があるから、そっちに行けばいいじゃないか。それに、隣には竜の頭が祀られた新興宗教のC寺院があるし、向かいには紙で出来た御神体を祀っているD寺院もある、もう一つ向こうには、木で出来た像を飾ってあるE寺院もあるじゃないか。そっちには、どうして神はいないとか非科学的とか言わないんだ?経典見せろとか証拠出せとか何故言わないんだ?それに参拝に来た人全てに、私が答える義務もないよ」
町人達はまた言いました。
「ここの住職に問題があるんだよ」
「答え方が悪いのさ」
「自分が間違ってるのに、何故改めようとしないんだ」
「誤解を招くことを言うからだよ」
「都合の悪い質問にはスルーかよ」
「誰も見えない所に祀ればいいんだよ」
「すり替えだな」
「既に論理破綻」
「出たー、勝利宣言ー」
・・・・・・
Bは本当に困ってしまいました。自分を助けてくれた不思議な石を祀ったら、大勢の町人達がやってきて、「これはなんでもない、タダの石だ」と言う。しかも、Bが「考えを変える」と言うまで、町人達は連日やってくる。今まで、ちっともきやしなかったのに。
全員がこの石に神が宿ると思ってくれなくとも構わない、これを信じてくれる人だけが参拝してくれればいいのに。
町人達は、考えが甘いとか石を隠せとか言うけれど、自分の寺なんだから何処に祀ろうと勝手じゃないか。
だいたい、反対する町人達はウチの寺には来なきゃ済むだけなのに、どうしてそれが理解できないのかな。
町人達は私の考えを変えさせることで、何を望むのだろう?目的は何だろう?
「この石に神が宿ると思ったことは間違いでした」ってことを認めさせるのが、そんなに嬉しいのかな?
この論争の先には、何があるのだろう?
たとえ私が認めたとしても、C、DやE寺院もあるのに、町人達はこういう運動をしに、全部を回るつもりなの?
頭が悪い連中ほど、人の言い分を見極めることが出来ない。
自らの正当化された考えを、他人に押し付けようとするんだろうな。
「信じている」という人間に、それ以上の意見が無意味なことにどうして気付かないのだろう?
「神の石」を信じるかどうかは、参拝に来た人間が決めればよいことであるのに。
もしも、「真実」を知っているなら、再び石を見に来る意味がないことも当然だろう?
Bはあれこれ考え抜いた末、A寺を閉めることにしました。何故なら、自分の命を救ってくれた不思議な石を粗末にするわけにもいかないと思ったし、自分の考えを捨てることも変えることも出来ないと思ったからです。こうして、無駄な「神の石」論争は終結しました。
町人達は何を得たのか?「あの石には神は宿っていなかった」という結論?でも、それなら、信じない多くの町人達が「あの石には神は宿っていない」という考えを持つことと、A寺には行かないことで、十分に達成されるはず。それとも、A寺を廃墟にすることで、そうならなかったらA寺に訪れる何も知らない人を、「神の石」という迷信から救うこと?町人達は、迷信防止のパトロール隊なのだろうか?真実のみを求め、それを見ず知らずの人々に広めて歩くという宗派の伝道師なのか?町の何処かに告知板を建てて、「A寺の石には神が宿っていない」と町の人々に告知するだけでいいのでは?その告知板を信じるか、Bの主張を信じるかは、町の人達が決めるのではないだろうか。得たもの―それは、単なるA寺の廃墟だけだ。