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今、社説が熱い

2005年04月09日 14時27分52秒 | 社会全般
ふと見ると、朝日新聞と産経新聞は、連日社説で批判の応酬を繰り広げている。社説は新聞社の顔である。顔を汚されては、「黙っていられない」ということなのであろう。NHK番組改変問題の時、ライブドアの株買収の時、そして、今回の教科書問題ということになる。気分としては、互いに「顔を潰さないでくれ」ということも理解できるが(笑)。昔は何紙も購入するなどできなかったが、今の時代は有り難いことに、これらの社説がネット上で読むことができるのである。それは、以前よりも広く「顔を知られる」ということに一役買っているかもしれないが、逆に「顔を利かせる」ことがマイナスとなることもある。


朝日新聞が社説で取り上げた、教科書の記述に関して、「つくる会」に文句は言えまい。何故なら、記述内容は執筆者に委ねられており、それを検定審議会に提出するだけの話だ。朝日の社説はここの捉え方が違っていると思う。どのような記述としようとも、提出を拒むものではないはずだ。問題はその先にある。検定は文部科学省が所掌する審議会によってなされ、ここでの決定は文部科学大臣が決定したことと同様なわけで、もしも「不適切」という記述や「著しくバランスを欠いている」内容ならば、検定時に不合格とされるか修正されねばならないはずである。歴史的事実に基づかない根拠の乏しい記述とか、多くが否定的な学説に基づくで記述などであるなら、審議会若しくは文部科学大臣が改めさせる責任がある。よって、「作る会」や扶桑社への批判は、妥当といえないのではないか。検定について批判するべきである(扶桑社の検定前教科書の学校への頒布は非難されて当然ですが)。


中山文部科学大臣は時事通信(4/7)の記事によれば、「竹島を記述するかどうか最終的な判断は各教科書の編集者の判断に任せられている。(文科省は)教科書(の記述)を削除しろという立場ではない」と述べたようであるが、これは恐らく錯誤ではないか。教科書検定は学校教育法第21条に基づいている。修正権は文部科学省にあると考えられ、これは記述内容の責任は全て監督省庁の長である大臣にあると思うし、その記述内容の改変・削除等の最終的な決定権限は大臣にあると考えられる(正確には、法学の専門家に聞いてみてくださいね)。法律の条文は以下の通りになっている。


学校教育法 第21条

小学校においては、文部科学大臣の検定を経た教科用図書又は文部科学省が著作の名義を有する教科用図書を使用しなければならない。
○2  前項の教科用図書以外の図書その他の教材で、有益適切なものは、これを使用することができる。
○3  第一項の検定の申請に係る教科用図書に関し調査審議させるための審議会等(国家行政組織法 (昭和二十三年法律第百二十号)第八条 に規定する機関をいう。以下同じ。)については、政令で定める。


中学、高校等の他の学校においても上の条文が準用される。従って、この条文から責任所在を確認すれば、文部科学省及びその大臣であると思う。検定に合格させた以上、「作る会」や扶桑社を追及するのは「筋違い」と言えるであろう。また、朝日が取り上げた竹島部分の記述については、修正させられた結果が「不法占拠」ということになったのであるから、この責任は文部科学省や審議会にこそあるのではないか。


一方、産経新聞であるが、反論するのは朝日の社説にある通り「気持ちは分る」。フジサンケイグループの産経新聞が、ニッポン放送やフジテレビや扶桑社の問題を取り上げ、何か主張する時には、グループ内の関係上、先入観を持って受け取られる可能性はあるだろう。現に、グループに利するような言論を公器である新聞上に堂々と書き、顔である社説にそういった主張を過去に何度も行ってきた。これを朝日に非難されても、仕方がなかろう。そのような偏向した報道姿勢は、先入観の助長に繋がったとしても自ら蒔いた種といえるだろう。


このような見方を差し引いても、扶桑社の教科書についての報道は、産経新聞に申し開きができるような理由などないだろう。自分の顔(社説)に、わが子のお面(扶桑社、etc・・・)をいつも載せて歩く者が何処にいる。今日の産経の社説には、「多様な教科書が必要だとすることと、特定教科書を排除することは矛盾する。朝日はいつから二重基準を持つようになったのか。」「朝日は今年一月、NHK番組が政治家の圧力で改変されたと報じた問題でも、明らかに論点をすり替えた。(中略)朝日は論点すり替えで、もうこれ以上、驚かさないでほしい。」とあるが、こうした主張は程度の低いネット上の論争方法と違いがないような反論である。相手の主張のミスや過去のミスをいくら追及してみたところで、「自らの正当性を証明することにはならない」ということも判らないのか。こういうレベルの低い社説は、如何なものか。正当性の証明は相手の主張とは全く関係なく行われなければならないことは明白で、こうした「論点のすり替え」を行っているのは産経自身であり、NHK問題についての朝日の古傷にいくら塩をすりこんでも、教科書問題の正当性とは無関係である。産経のこうした記述は、まるで子供の口喧嘩であり、朝日の言論の信用性を引き合いに出すことで、自らの相対的優位を保とうとする卑怯な姿勢にしか見えない。


朝日が社説に示した、「産経新聞はこれまで、「つくる会」の申請本の内容が外部に流れて報道されたり、批判されたりするたびに、「検定作業にあたる教科書調査官に先入観を抱かせる」「書かないのがマスコミの良識」などと批判していた。」という記述に、産経は反論があるのだろうか。報道が審議会の判断に大きな影響を与えたり、判断を狂わせるならば、判決前の裁判報道も同様に「判断を狂わせる」とでも言うのだろうか。他の検定や判断を伴う行政の決定事項も同様だろう。むしろ、審議会の判断の適正さや公正さを知る上で、教科書検定のような行政側の決定事項に国民やメディアが注視し高い関心を持つことの方がはるかに重要だろう。その意味では、朝日と産経の社説は、役立っていると言えるかもしれない(笑)。


フジサンケイグループ内に「顔を利かせる」こともいいが、よくよく自分の顔をもう一度鏡で見てみることですね、産経新聞さん。フジやら何やらのお面が一杯で、どれが「元々の顔」か判らなくなっていますよ。おまけに、扶桑社に「顔に泥を塗られて」泥まみれでは、もっと面子も立たないでしょう。随分とご立派なジャーナリズムの顔をお持ちなのですね(笑)。


「驚いた」「こっちが驚いた」「驚かせないで」という応酬も、私には「驚く」にも値しない、まあ「呆れ顔」といったところでしょうか(爆)。


(一部修正しました。4/9 18:15頃)