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人権擁護法案はどうなるか2

2005年03月25日 14時12分04秒 | 法関係
小倉先生からコメントを頂きましたので、それについてお答えしたいと思います。最初に「ストーカー行為等の規制等に関する法律」(以下、「ストーカー規制法」と呼ぶ)についてですが、この立法趣旨に反対するというものではありません。また、その他の法令によっても、立入検査等の調査権(質問できるとか、帳簿・書類等の提出・調査とか、そういった調査も含めて)は存在しており、その全ての権限に反対とか処分に反対ということでもありません。そのような行政の権限はそれこそ沢山あります。


以前、私が記事中に例として取り上げた動物愛護法(動物の愛護及び管理に関する法律)の改正案が先頃出されておりましたが、これに反対と表明して改正阻止運動したりしている人物や記事等には未だ出会っていません。この法律も、人権擁護法案と似たような調査権等があり、今後は「罰則を強化しよう」という法改正の趣旨であっても反対が明らかになってはいないようです。これは、一度作られてしまった法律の罰則強化には「反対」が出にくいためなのかは分りません。それとも「動物愛護法」によっては、国民が「重要と考える権利」をそれほど侵害されるとは多くの人が考えていない為かもしれません。ただ、既設の法令に「罰則を強化しよう」ということがごく普通に行われてしまう、ということは事実であることがお分かりになるでしょう。


それに比べて、人権擁護法案は反対意見は多く出されており、国会議員からも反対の意見表明が行われております。これは、「動物愛護法」よりも、特段の影響が考慮されるからではないかと思います。小倉先生が例に挙げておられたストーカー規制法では、一応行政手続法(準用行政手続法も含む)による規定が設けられております。通常の流れから考えると、まず警告を与え、それでも十分ではない時には仮の命令を与え、最終段階としては禁止命令ということになります。特別な事情がある時以外には、意見聴取とか所謂聴聞手続きが存在しています。この命令に不服である場合には、行政不服審査法による提訴はできないものの、行政訴訟は可能なのではないでしょうか。行政(警察)職員による審議ではありますが、聴聞手続きが存在し、命令の適否について検討できる機会があり、この時命令を受けた側は弁護士等の代理人・参加人も同席できます。


この手続きと比べて、人権擁護法案は一応意見聴取機会はありますが、単に「取調」を受けるのと違いはあるのでしょうか。「勧告」を受けても、この「勧告」について争うことはできません。何故なら単なる行政指導であるからです。ところが独禁法の「勧告」には受けた側に「拒否権」があります(勿論受け入れて審決としてもよいです)。それによって、審判手続きにチャンスを求めることが出来るのに、人権擁護法案では、それができません。しかも拒否権を行使しようとすると、一方的に「公表」手続きをとられ、公表されてしまいます。ここまでの時点で、他の法案と比べて救済・再検討機会が確保されていないのではないか、と思われるのです。これは明らかな、法の不備であると思います。


また「公表」手続きについても、法令によって「公示」規定があるものと、ないものがあります。また、放送法に関する行政指導が「公表」されたり、公取の「勧告」が「公表」と一体運用されていたりしますが、これらの「公表」手続きは、統一性がないばかりか、行政側にその裁量権があります。これと人権擁護法案に規定される「公表」というのは、整合性に欠けるのではないかとも思います。このような、行政指導に関する「公表」手続きは問題が大きいと思います。他の行政指導では公表されていない業種があるかと思えば、他方の業種では”勝手に”公表されてしまう、というのも如何なものかと思います。人権擁護法案で「公表」を条文中に規定するほどの「制裁的」「懲罰的」行為であるならば、他の行政指導でも統一性のあるものにすべきです。そもそも、行政側の”勝手な”裁量権というのは、このようにして適当に用いられてしまう懸念があるということをお分かりいただけるかと思います。


人権委員会の独立性・中立性について、条文上では如何に守られていると言われても、会計検査院の”独立性”を検討すると信頼性は低いと言わねばならない、と言えます。法解釈は行政庁に権限があり、何度も例に出していますが、会計検査院長が行った「”捜査機関ではない”ので、犯罪認知は事実上不可能であり、検察への通告はできない」という答弁を覆すことはできません。これは議員が聞こうとも、他の行政庁の方が尋ねても「変更不可能」です。”捜査機関ではない”金融庁は銀行法に基づく金融機関の検査(これも人権擁護法案と似た調査権が規定されています)で現に告発しているし(UFJですね)、公取にも同様の「犯罪を認知したら検察への告発」義務が独禁法の条文上規定されており、これも実際にその通り告発され起訴となった事例は存在するでしょう。しかしながら、憲法90条に規定される会計検査院だけは、「通告は不可能」なのだそうです。この法解釈を変えさせられる方法はありますか?このような行政庁の恣意的な法の運用・適用、判断や決定に対抗できる手段はありますか?現実にこの解釈を誰も改めさせてはいません。国会議員もこれには何の効力もありませんね。政党にしても無力は同じです。そう簡単には行政庁の恣意的運用を止めさせられないのです。


国民がこれに訴訟提起するとして、どういうことに対して提起するのですか?「国会発言は誤りであったので訂正を求める」裁判ですか?それとも会計検査院法第33条の解釈について、「通告は事実上可能である」ことを争う?それで、仮に「通告は可能」という判決となったとしても、現実に運用される時に「通告」すると思いますか?そういう法の適用について、一件ごとに提訴していかなければならないでしょう。
例えば、本来警察裏金事件ではA警察官を通告しなければならなかったのに、通告していないのは誤りである。よってこの決定を覆す訴訟を起こす、次にB警察官も、次にC警察官も、・・・という具合に延々とやれということになりますね。一件ごとに争っていかねばならない。これを国民はどうやって知りえますか?その判断材料すらないのに、提訴出来ないでしょう。行政の法の運用というのは、このような仕組みになっているのです。ですから、これに対抗できる有効な手段を持たない以上、行政には「誤って用いられたとしても大事には至らない程度の権限」しか与えるべきではない、というふうに考えます。これが、反対の主な理由とも言えますね。このような法解釈や運用について司法判断がきちんと得られるようなシステムであれば、まだ考慮する意味があるかもしれませんが。


同じ法律の条文であっても、時代とともに解釈が変わることも珍しくはありません。これで、大きな影響を受けた事件として、市立札幌病院事件を書きましたが、これは行政庁が出した「通知」の内容を巡っての問題であり、「通知」が変われば個人の法的責任が発生してしまう具体例ですね。通知とか通達は、行政庁が大量に発行しますが、この内容について一般国民が争うことは難しいですね。裁量権の範囲としては、広範囲に渡っているでしょうし。先の市立札幌病院事件の1審判決を受けて通知内容に変更が見られないのは、司法判断を無視できる、という意味なのか、誤った通知に基づいた司法判断が下された為なのかわかりませんが、合理的説明は思いつきません。このような通知の正当性について、一件ごとに訴訟提起して争っていくことは、非常に大変な作業でしょう。補助金適正化法第7条第2項規定の適用について、これが正しい解釈に基づいて適用されているかどうかを、全ての補助金について検証し、その誤りを見つけたら提訴するなどという作業をできる人がいたら会ってみたいですね。


今後人権擁護法に具体的事例として、色々な判断材料となる通知とか通達が加わるかもしれませんし、法務省の省令で別な「しばり」とかマスコミ条項のような「凍結・解凍」権限を省令に持たせることは可能です。これによって、政治家批判とか政府批判とか行政庁批判とか、そういった公権力に関わる言論を排除することに用いられる可能性は否定できません。投票によって政治家が僅かに選べる権限を有していたところで、誤った「通知」が出されそれが適用されることを防げません。


こうした行政庁の低い信頼性を鑑みれば、その権限は限定的なものに留めておくのが望ましいことは明らかであり、現段階での人権擁護法案のような権限は到底持たせられない、ということです。最低限、法案自体に検討機会や司法判断を仰ぐ機会が規定されているべきであり、他の行政指導における「勧告」と「公表」の統一性が図られているべきです。



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