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法と正義9

2005年04月05日 13時54分32秒 | 法関係
「正義」とは何か?これは根源的な問題ですね。私のイメージでは・・・「大岡越前」とか「水戸黄門」でしょうか(笑)「強襲者」さん、「an accused」さん、「常夏」さんからコメント頂いたので、考えてみました。よく見ると、以前から「法と正義」などと大仰に使っていたのですが。


正義は、およそ良心に基づく、人の道に外れない公正さ、規範ではないかと思います。今までの記事に書いてきた趣旨としましては、これに従い法を運用してもらいたい、ということですね。「正義に基づく」というのは、人によって違うのではないのか、というご指摘もあるかもしれません。確かにそういう一面はあると思いますが、行政府が法を運用する際に求められる正義は、多くの場合に判断が困難な正義ということは非常に少ないように思います。むしろ形式的になりやすいことはあっても(杓子定規に適用ということでしょうか)、「曖昧」とか「ばらつき」とか「不安定」という要素は元来少ないのではないか、とも思えます。


ところが現実を見てみると、法律の種類は違えども、個人には適用し、行政組織には適用しない、ということになりますと、必ずしも杓子定規に適用しているということはないでしょう。実定法に従えば、同じ脱法行為に対して、一般に同じような制裁が加わると思うのですが、一般個人は有罪で行政職員や政治家は無罪となりますと、これは「正義」に基づかないのではありませんか?というふうに思えるわけです。


テレビの大岡越前は、実定法よりも自然法に正義の重点があるような感じ(よく判りませんが)で、”大岡裁き”というのは杓子定規ではない、良心を尊重した法の適用をするので多くの人心に共感をもたらすのではないでしょうか。権力を有する者に対しても怯むことなく制裁を与える一方で、弱者のやむなき事情などを斟酌することも、正義の顕れではなかろうかと思うのです。行政府の法解釈や運用の際に、まさか「大岡裁き」を求める訳にはまいりませんが、権限行使の立場にある人は、心の内にある正義―良心でも公正さでもいいんですが―に従って解釈・運用を行って欲しいのです。そういう志があれば、大きく誤ることも少ないだろうし、恣意的運用と非難されることも少ないのではないか、と考えております。


法律は、通常条文作成にあたり作成者の意図が織り込まれていると思います。今まで一つの法律を通読することは無かったのですが、比較的短い法律を読んでいくと、この条文は何故入れられたのか、どういう事態・適用を想定して文言が入れられたのか、というのが何となく伝わってきますね。これは、普通の入試問題の作成と似ているように思います。通常は、出題者が「ここをこのように考えて、その結果こういう答えが導きだされるだろう、だから模範解答はこうなる」というようなことを考え、作られていると思います。出題者のある意図があって、そのような答えを導き出せるように作成されているのですが、時には全く違った読み取り方や感じ方をしてしまい、想定外の解答が出されたりする。またあるときは、問題の読み取りが不十分であったり、誤った認識で読んでしまって(ようは誤読ですね)、解答の道筋から逸れてしまい、正しい答えが導き出せなくなってしまう。これは一般人が行う法解釈でも似たようなことが起こってしまいますね。ですが、元々作られた入試問題が良問ではなかったから、そういう解答が増えるのかもしれません。


本当は一つ前の設問で正しい答えを必要としていたのに、そこが間違えていて次の問題に誤った解答をしてしまう、ということもあるかもしれません。行政府が行う法解釈や適用においても、同じような現象が起こってしまうことがあると思います。実態調査不足、現状の問題認識の誤りや下部組織からの未報告等(=前の設問の答えの誤り)によって、次に行うべき解釈や決定が間違えてしまうというものです。これはそれ程珍しくなく起こってしまうように思います。


最後に、意見表明する際の、無知なる国民の理解不足や調査努力の不足は誰の責任か、という問題について考えてみます。幾つかの考え方があるかもしれませんが、私は自分の知的レベル、知識量、言葉の正確さ、情報抽出・調査能力、リテラシーなどを考えるに、到底高い水準にあるとは思えません。ですので、「知らない」や「調べない」や「理解が不十分」ということが読んでいて気になったとしても、一定のレベルを他人に要求したりはしません。コメントにも書きましたが、例えば勉強が得意ではない人に難解な問題を解いた後で意見を言え、ということを求めることは出来ないと考えるからです。勉強が得意な人にとっては、「こんなの簡単ジャン」と言って楽勝で解けるかもしれませんが、世の中そんな人ばかりとは考えていないからです。権威ある専門家とか研究者とかなら、明らかに間違いだということを主張したりすると、それは自らの信用が傷つくだけですから、十分な調査や下調べが必要かもしれません。ですが、専門家でもなく、何の権威もない一般個人が、論文を書く訳でもないのにそれ程の努力義務が課せられているとは思いません。無名の一個人が書いたことに、どれ程の重みがあると言うのでしょう。それは読む人の考え方や感じ方に任せるということではいけないのでしょうか。


言説の正当性や確からしさは、メディア、諮問機関の委員とか、言説によって対価を得る人とか、政治家のような公人とかは、普通の人よりもはるかに気を遣わねばならないでしょう。しかし、どこの馬の骨とも分らない匿名個人(私です)の意見について、それ程の信頼性や厳格さは求めても仕方がないように思います。勿論匿名で書かれている記事にはすばらしいものも沢山ありますが、そういう信頼性の高い記事については必然的に読み手がそのように理解できる訳ですし、「眉唾だな」と思って読まねばならないものも当然ある訳ですから、読み手の判断力に依存することも仕方がないように思います。それが自由な言論でもあると思います。


行政としては、政策決定や法律の制定に当たり、国民の意見を聞くことは当然です。また、その判断材料となる情報提供は出来るだけ行った方がよいでしょうし、理解を助ける手段をとることも義務であると思います。個人の調査能力が低いので正しい情報を取得できず、その結果として誤った解釈や十分理解できなかった人が多い場合には行政の責任ではない、という判断をされても結構だと思います。世論も新聞も議員も誤った解釈で反対の立場となってしまうならば、行政側が意図している「法案可決」は現実問題として不可能となってしまうだけですから。結局「法案可決」を目的としている以上、行政側が誤解を解いたり理解不足を補わない限り、目的は達成されませんね。それを行うかどうかは行政側の判断でしょう。官邸のHPを探せばあるじゃないか、とか法務省のHPを探せば見つけられる、といった理由は、それが出来ない人の意見を排除するのと同じです。勿論、国民である以上努力した方がよいということは賛同しますが。


ちなみに、人権擁護法案について、小倉先生の数本の記事に書かれた数百にも及ぶ(ひょっとして千以上かな?)コメントを初めから読んでいましたから、ほぼ全ての反対派の意見は網羅されていたように思います。これを敢えて調べる必要性は全く感じられなかったし、ましてや自分の意見の参考とか論理強化とかには調べるまでもなく必要ないとしか思えませんでしたが。自分と同じ「反対派」の意見は当然の如くネット上をあちこち調べねばなりませんか?私にとっては、記事中に挙げた4氏の記事で十分なものでしたので、それ以上の反対意見を探す意味はないように思われました。