昔、人間の命は地球より重いと言った政治家が居たが、それは一つの表現として機先を制したに過ぎなかろう。そう言われればなかなか反論しにくい。しかしまあ、それならいくつ地球があっても足りないということになってくる。それに現実にはどっちの命がなどということがあるのだ。どっちの命がなどと云うことは表だって論じられることはないが、そうした鬩ぎ合いは地球上で数限りなく、暗黙の落とし前が着いている。
自分には無関係と思っている人も、自分の小さな欲望が、例えば安くて旨い海老フライや軽くて暖かいカシミアへの嗜好選択は積算されて大きな力となり、裏では厳しい血の滲む選択を生んでいるのに気付かないだけだ。いくつかのショックアブゾーバというかクッションを介しているために気付きにくいが、生きることは軋みと摩擦の上に成り立っている。
医療費にも実は水面下ではそうした厳しい現実との鬩ぎ合いがある。癌はかっての死の宣告のような恐ろしい響きを失ったが、今でも圧倒的な怖さを持って患者心を追いつめる。抗がん剤の効果については、慶応大学の近藤さんという人が投げかけた疑問に十分な回答がされていないようだが、効果とは別に本当は費用の問題も論じられる必要がある。ところが命が掛かっているのに、費用とは何事だという心の動きがあって、表だってはなかなか議論が進んでいない。
例えば百人の人に使用して十人の人に2年間の延命効果のある抗ガン剤の使用はいくらなら妥当かなどと言う議論はなかなか俎上に乗らない。不思議なことに人間はいざ自分がその立場になると皆自分は運の良い十人の方に入ると思うし、家族はとにかく出来ることをとなってしまう。こんなことを書くと脅されそうだが、1000円で助けられる命がアフリカには数限りないのに、日本では10%程度の確率で2年の延命に百万円近い費用(実質患者負担は十万程度)が使われている現実がある。効果だけでない希望を与えられるのだとか、お前がなったらどうするとか言われれば反論しにくいし、喩え従容として死ぬなどと言ってもなかなか信じてもらえないだろう。
しかし事実を見つめる精神なくして、明日を切り開いて生き延びてゆくことは難しいのではないか。今の日本にはそうした精神が乏しいように思う。