駅前糸脈

町医者をしながら世の中最前線の動きを感知、駅前から所見を発信。

修行の最初が肝心

2017年02月13日 | 人生

           

 二月も半ば風は冷たいが日射しには春の気配が濃く、不思議に寒さが身に凍みない。希望の春が透けて見えるせいだろうか。

 今朝も医院の入り口を開けるとお早い三人組がおはようございますと入ってきた。五時には眼が覚めてしまう爺さん達で婆さんは居ない。居たことはないというと嘘だが、まあ寒い冬場には見かけない。

 安倍首相の引いたカードは何だったんだろう。握手ハグで嬉しそうなのも度が過ぎてちょいと気色悪いのだが、ダイヤのキングくらいだったのだろうか。くれぐれもアメリカファーストの人物なので注意して戴きたい。

 臨床医は職人的な側面を持っている。凡そ何らかの技術を要請される仕事には職人的な修行が欠かせない。その時に大きな意味を持つのは指導者先輩で、その後の歩みに大きな影響を及ぼす。唯、この指導者特に先輩は選ぶことが出来ず、運というか出会いに左右されてしまう。尤も、意地悪だったり癖のある先輩でも何某かの教えを施してくれ、本当の外れというのは希のようだ。勿論、学ぶ側の資質姿勢にも問題はあると思う。いずれにしても修行と言うべき時代の持つ意味は大きくその後の仕事に影響する。

 なぜ修業時代が大切で大きな意味を持つかというと、恐らく一番知識技術を吸収できる時期だからだ。吸収力と可塑性のある唯一の時間帯と思う。最初の二三年の持つ意味は決定的というほど大きい。この二三年を過ぎるとちょっと慢心というか過信の時期が来る。何でも出来そうな気になって矢面に立つと厳しく難しい現実に高慢の鼻をへし折られて漸く一人前になっていくものだ。おそらくこれは医業に限らず、どのような仕事にも言える事だろう。

 果たしてAIに修業時代はあるものだろうか?。慢心失敗反省などがなくても一人前になれるものだろうか、ロボットが懐かしく修業時代を思い出すなどということはなさそうだが、いかがなものか。

コメント
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