あられの日記

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本門寺の墓所続き

2012年02月24日 05時31分28秒 | 墓所巡り
池上本門寺に訪れた目的は、墓巡りではなく秘密のお庭だったハズ…。でも墓巡りに持てる限りのエネルギーを注ぎ込み、更には1日に覚えられる限りの記憶力を費やしてしまったらしい…。どんなに墓巡りが楽しかろうと、ボチボチタイムリミットが迫って来ました。や。この段階で既に最終目的地の川崎大師は諦めてますが。
そんなこんなで、本門寺のお墓と歴史に詳しいご隠居とお別れし、まず向かった先はお休み処です。何はともあれ、お腹に何か入れないともう動けん…。ええ。わしらはお昼を食べるのも忘れて墓巡りに夢中になっていたのですよ。
もういい年なんだからさ~。落ち着こうよ。自分…。どっかから、友人・妹弟のツッコミが聞こえてきます。

昼食メニューはおそば。あっちゅー間にかっ込んで、スタンプ集め再開です。
ええ、そうなんですよ。秘密のお庭に入るには本門寺を巡って5つのスタンプをコンプリートしないと入れないんです。どこのRPGゲームじゃっ!!時間がないんじゃっ!
などとぼやく時間も惜しんでコンプリートして駆けつけた秘密のお庭という名前の松濤園。
でも…。時既に遅く、太陽がお山の向こうに入ってしまい、採光加減がよろしくない。あまつさえ、本来の紅葉散歩の目的だった松濤園のモミジ群はまだ色づいてないというダブルコンボ!!うう…。気力が尽きそうよ。
そんなこんななお庭の画像はこちらの記事豪徳寺から池上本門寺紅葉散歩(2011年11月24日)の記事で確認していただくことにして、一つだけ。トップ画像の説明を。
設置してあるっ説明板には「西郷隆盛・勝海舟会見の碑慶応4年(1868)3月、倒幕軍の江戸城総攻撃を前に倒幕軍の首席参謀であった西郷隆盛と、幕府軍の勝海舟がこの地で会見をし、江戸城無血開城の交渉を行った。会見は松濤園内の四阿で行われているが、建物は現存しない。この石碑は昭和16年に建てられたもので、西郷隆盛の甥にあたる西郷従徳の揮毫になる。なお、本門寺には倒幕軍の本陣が置かれていた
確かね、池上本門寺は空襲に合って殆どの建物を焼失してるから、会談した建物も大概その位でなくなってると思うんだよね。
ちなみに、日本史とか歴史の本では、西郷と勝海舟の会見は、品川の薩摩藩邸って書かれてると思うのね。あれは本門寺の会見の後の出来事です。ンでもって、西郷と勝海舟の本門寺の会見前にある程度道筋をつけてたのって、勝海舟じゃなくて、もう一人の舟の人の方じゃないかと…。名前名前…。鉄舟?
んな訳で早回しで秘密のお庭を見物。次に目指したのは本門寺の西側の斜面にある墓所です。
多宝塔
こちらは以前訪れた時に修復工事をしていた場所です。
天保2年(1831)の日蓮聖人550遠忌を記念して、日蓮聖人御荼毘所跡(火葬に付された所)に建立された。屋外に建つ宝塔形式の木造塔としては日本唯一の遺構。
なかなかに色鮮やかです。多宝塔に向かい降りて行く階段もこうワクワク感が盛り上がりいい感じなんですが、多宝塔の背後にある紀州徳川家墓所も凄いです。

この墓所は家康の側室お万の方をはじめ紀州徳川家奥方の墓塔が立ち並ぶ。…あれ?昨日もこの文章書いたような~?本門寺の墓域のあちこちに紀州徳川家のお墓ってあるのね。
実は紀州徳川家墓所の背後の崖の上にもお墓があります。そこは歴代聖人様の墓所。歴代貫首のお墓です。撮影し忘れましたよ…。も、ダメダメ。
狩野探幽の墓。
狩野探幽は狩野永徳の孫。幕府の御用絵師として活躍し、狩野派を大きく育てた人。延宝2年(1674)10月没。
墓の形は瓢箪型で、墨壷をかたどっている。総高2、95メートル。碑高2、8メートル。
その上部に「妙法」と刻む。傍らに一代記を刻んだ供養碑が、狩野探信によって建立されている。
付近に妻や一門の墓もある。

お、終わった~。お墓巡りの記事を今まで放置してた理由をブログを書き始めて分かったよ。大変なんだね。まあ、歴史を検索しつつ記事を書くのは楽しいと言えなくもないが…。せめて当日と言わず、翌日には書いておくべきでしたよ。溜めてちゃあイカンのですね。次から気をつけよう。つーか、墓地巡りはやり過ぎると危険なんだね。歴史の波に弄ばれてしまう。一つ賢くなったよ。
んなこと言ってますが、明日もまだ池上本門寺です。明日はねえ、日蓮のご臨終地の紹介です。   人気ブログランキングへ
コメント
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