生活行動を略して活動というのかは、
確かでないが、さもありなんと思う。
生きるを活かす行い、動きをしていくという
意においてである。
日々、自身の生を活かす行動をしているかという
問いかけは心がけてきたつもりであるが、今年ほど
この活動を制限された年はない。
動きを止められる事ばかりで、もう早や10月を
目前にし、一年の終わりさえ実感するまでに
至っている。
普通は、多忙な中で時間の短さを痛感する
ものだが、動きの制限が続いた上の緩慢さに
よって逆に時間の短さをより痛感させられている。
何かと節目となるはずだった2020年という年は、
なかった年の様に過ぎ去ってしまうだろう。
一年を棒に振ったとは思わないが、恐らく後年、
コロナの年という記憶しか残らないのではないか。
それでも、できることを精一杯に変わりはなかった
ようにも思える。
いやまだ過ぎ去ったわけではない。
まだその年の活動の中にある。
日々の積み重ねという意味では、節目も暦も
関係はない。
止まることのない日々の生活において、
自身がどう行動していくのか。
如何なる制限があろうと、そこに停滞は
あり得ない。
あるとすれば、自身の心の停滞なのである。
心だけは停滞させてはならない。
それはつまり、生活行動の停滞となって
しまうからである。
活かして生きる、動いて行う。
状況がどうであれ、ここに何ら変わりはないし、
これからも変わらない事だけは確かなようだ。
確かでないが、さもありなんと思う。
生きるを活かす行い、動きをしていくという
意においてである。
日々、自身の生を活かす行動をしているかという
問いかけは心がけてきたつもりであるが、今年ほど
この活動を制限された年はない。
動きを止められる事ばかりで、もう早や10月を
目前にし、一年の終わりさえ実感するまでに
至っている。
普通は、多忙な中で時間の短さを痛感する
ものだが、動きの制限が続いた上の緩慢さに
よって逆に時間の短さをより痛感させられている。
何かと節目となるはずだった2020年という年は、
なかった年の様に過ぎ去ってしまうだろう。
一年を棒に振ったとは思わないが、恐らく後年、
コロナの年という記憶しか残らないのではないか。
それでも、できることを精一杯に変わりはなかった
ようにも思える。
いやまだ過ぎ去ったわけではない。
まだその年の活動の中にある。
日々の積み重ねという意味では、節目も暦も
関係はない。
止まることのない日々の生活において、
自身がどう行動していくのか。
如何なる制限があろうと、そこに停滞は
あり得ない。
あるとすれば、自身の心の停滞なのである。
心だけは停滞させてはならない。
それはつまり、生活行動の停滞となって
しまうからである。
活かして生きる、動いて行う。
状況がどうであれ、ここに何ら変わりはないし、
これからも変わらない事だけは確かなようだ。