ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

教習所

2015年03月18日 | ノンジャンル
息子が自動車教習所に通いだした。

教材や時間割などを見ると、懐かしい思いが
よみがえる。

いろいろなタイプの教官がいたが、それは
いわゆる臨機応変力という点で必要な
ことであろう。

隣に教官やベテランドライバーがいないと
運転できないようでは困る。

免許を取得して一年はかなり緊張度の高い中で
運転することだろうが、善し悪しは別として
人間は慣れるという資質を持っている。

この慣れるということが油断を生み、思わぬ
事故となることも多い。

特に、走り慣れたルートや、近隣での事故が
多いのも慣れが油断を招いた実例であろう。

飲酒運転もしかりである。
初めは、飲めば絶対運転しないという意識が、
一杯くらいならとなり、それが、1本となり、
2本3本となっていく。

したたかに飲んだ後、運転して家に帰る
ということをかなりの回数行っていた私である。

最近、脱法ハーブなど薬物による事故が
多発している。
死傷者が出ているにもかかわらず、運転していた
本人にその記憶がない。

私にはそのことについてとやかく言う資格はない。
自身も同じような事故を起こしていたかもしれない。
単に、幸いにも人身に関わるような事故を起こさ
なかったというだけなのである。

運転とは、人の命に関わる危険な行為であるが故に、
技能面、知識面共に一定の基準以上の取得が
課せられる。
その上で、その行為を許されるわけである。

この一点だけは、息子にも肝に銘じておいて
欲しいと思う。

家族や他人を巻き込む点ではこの病気と
似ているが、事故は即、命に直結している。

そして、共に最悪なのは、本人にその明確な
記憶も意識もそこにないということなのである。

巻き込まれた側に立てば、たまったものではない。

事故により、自分が窮地に立たされることを
想像するよりも、他人の命を奪い、その遺族を
苦しみのどん底に落とすということを
想像すべきである。

油断とは、すなわち、自分が責任を取りようも
ない事に対して、大丈夫だろうという、
無責任極まりない、驕りなのである。