ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

時の流れ

2010年02月18日 | ノンジャンル
時間という概念は、いわば変化であり、それは万人に
平等である。

忙しい人には早く流れ、暇な人にはゆっくりと
流れているわけではない。
それはあくまでもその人の感覚である。

一日を人の一生と捉えるなら、朝、目覚めた時が
誕生である。
一日を生き、疲れた身体を休めるために眠りにつく。
これが死である。

一日という時間は平等に与えられている。それを
どう過ごすかは、どう生きるかであって、その人の自由だ。
人にこう生きるべきと強制されることでもなければ、
どう生きたかを責められることでもない。

自らが主体の人生である。自ら学び、自らどう
生きるのかを決め、自ら行動していくのが
自身の人生である。
誰も他人の人生を生きることはできない。

ならば、自分の人生くらい、自分で生きようではないか。
誰のためでなくとも良い。自分のためだけでも良い。
自身の生き方が他人にどう映り、どう評価されるのかに
囚われたなら、それはもう自身が主体ではなくなる。

他人や、社会や、環境のせいにして自分を憐れんでみても、
やはり主体は自分でなくなってしまう。
石に躓いて、転んでけがをして、それを石のせいにして
いくら石を罵り、恨み、その責任を問うたところで
詮がない。

現実は自分が痛い思いをしているだけのことである。
人は失敗に学び、挫折に学び、経験に学ぶ。
それは主体的に自身の人生を生きるためである。
石のせいにしている間は、また何度も石に躓くことと
なるであろう。

忙しく時間に追われながら、あっという間に過ぎ去った
一日でもよし、何もできずに、否、何もせず、無為に
過ごした長い一日でもよい。 その人の一日であれば、
誰に文句を言われることもないであろう。

ただ、願わくは、その日一日を終えた時、つまり、
ひとつの人生の終焉にあたって、充足感が
あれよと思う。

これは、いかなるごまかしも虚偽も通用しない、
自分自身の実感という、もっとも冷厳な事実である。
その時に後悔してももう後はない。
時間は平等である。全ては自分自身に帰着する。

朝起きて、一日を精いっぱい生き、疲れ果てて深い
眠りにつき、また新たな力を得て、新しい朝を迎える。
その中で満足感、充実感というものが得られるであろう。

ただ、それが喜びであるかどうかは別問題である。
喜びとは、己が成し遂げたこととは実はあまり密接な
関係にはない。
むしろ、それは自分がどう生きたか、そしてそれが
他人にとっての喜びとなったかどうかに関係している。

ことさらに、人の為などとおためごかしを
たれなくとも、自らの人生を生き、その充足感に
包まれるとき、そこに他人の喜びをも見てとる
ことができれば、最高ではないかと思う。

なかなかそうはいかないし、容易いことでもない。
だが、時間という概念を持つ人間は、それが変化で
あることも承知している。
今日の自分は昨日の自分ではない。明日の自分もまた、
今日の自分ではないのである。

人はそれを、可能性と呼ぶのである。
そして人は、その限られた時間の中で、
あらゆる可能性を生み、実現させてきたのである。