「記憶の跡」(体験記)のなかでも述べたが、集団療法とされる
自助グループについては、現在のところ、いずれのグループにも
参加していないし、唯一、月に一度病院で開催される「月例会」に
参加した経験があるのみである。
毎日通院から開放され、職場復帰して週に一度の通院となってから、
この月例会にも参加し、断酒1ヶ月、3ヵ月表彰を受けたが、
その後少し足が遠のいている。
結局、6ヶ月表彰も、月例会で授与される機会を失い、ある日の
診察後に表彰状を頂いた。
週末に掛かる出張や、接待などの後の休日に外出というのが
辛かった時もあり、仕事と重なった時もあり、出席するつもりで
あったのに、家の片付けなどで機を逸してしまったりということも
あったが、現在の心境としては、正直、どうも気が進まない。
間が空いてしまって、何となく行きづらいという事もあるが、
正直なところ、時間が勿体無いという事と、発言するのが億劫
という事が主たる原因のようだ。
通院となれば、たとえ前日まで出張であったとしても、仕事先から
直接病院へ行く事も多々あるので、基本的な心構えというか、
気合がまるで違っている。
まあ、理屈では参加した方が良い事は解っているのだが、
聞いてもらっているのかどうかもわからない、いわゆる「言いっぱなし」の
発言がどうにも苦痛だ。
聞くばかりでは、ずるいともいえるが、人間、誰しも、自分の話を
聞いてもらいたい、自分を解ってもらいたい、自分を認めて欲しい
という願望があるわけで、別な言い方をすれば、他者によって初めて
自分を認識できる事も少なくない。むしろ、他者が無ければ、
自分の存在は無いのである。「言いっぱなし」というのは、
自分にとっては大変な事である。
逆に「聞きっぱなし」というのは、別段何ともないし、余計な
詮索をする気も無い。
だが自分の発言となると、俄然あれもこれも、どれもそれも
一切合切話したくなる。
普段、必要以上のことを喋らない方ではあるが、自分の存在を
認めて欲しいという願望は人一倍強いのであろう。
こうして、文書にまとめた内容だけでも、膨大な量であるのに、
それを簡潔にまとめて、限られた時間内で体験発表をするなど、
とてもではないが、おぼつかない。他の方もおっしゃるように、
語り出せば、何時間あっても、足りないし、発表できるのは自身の
思いのほんの少しの部分でしかないのだ。しかも言いっぱなしによって、
それが人にどう伝わったのか、共感されたのか、反発されたのか、
右から左に流されたのか、聞いてもらっていたのかどうかさえ、
解らない状況というのは、非常に辛いものがある。
後は、時間的なものだ。2時間の会合に参加するとなれば、休日の
4時間以上を費やす事になる。非常に勿体無いという感が拭えない。
土曜日が通院の日である以上、連日となると更に物憂い気が
してしまう。
参加当初は、もちろんそんな風には思っていなかったが、回復の中、
頭の回転に行動が追いついてくるようになると、途端に、周りが
めまぐるしいほど忙しくなってくる。
仕事にしても、家庭内の事でも、休日の過ごし方にしてもそうだ。
その中で、土曜日、日曜日と続けて、4時間以上の時間を取られる
ということが、理不尽な事のようにも思えてくる。
「何を、どう話しようか。」ということに煩わされる事と、
物理的に時間を取られることで、反って自分の余裕を狭めてしまう
ような気がしているというのも、正直なところだ。
それでは、療法というものの、自分にとっては、本来の目的から
はずれてしまうのではないか?とさえ思えてくる。
。。。と、ここまでつらつらと書いていながら、結局、言い訳や
愚痴である事を、醒めた目で見ている自分もいる。二重人格とは
異なると思うが、どうも、あの幻覚と幻聴とに正面から向き合った
経験から、自分の本音というものを、違う面から至極冷徹に見ている
自分がある。そして、愚痴や、言い訳も、人間らしさである事も
容認している。
気が付いたこと、察知した事に対して取る行動が、迅速になってきた
にもかかわらず、どうも、行動を伴わない、観念ばかりが堂々巡り
していた頃の歯切れの悪さというか、うだうだしたものが、
この月例会参加ということに関しては、残っているようだ。
おかしな屁理屈をこねていないで、きっぱりと参加すれば
良いということなのだ。
自助グループについては、現在のところ、いずれのグループにも
参加していないし、唯一、月に一度病院で開催される「月例会」に
参加した経験があるのみである。
毎日通院から開放され、職場復帰して週に一度の通院となってから、
この月例会にも参加し、断酒1ヶ月、3ヵ月表彰を受けたが、
その後少し足が遠のいている。
結局、6ヶ月表彰も、月例会で授与される機会を失い、ある日の
診察後に表彰状を頂いた。
週末に掛かる出張や、接待などの後の休日に外出というのが
辛かった時もあり、仕事と重なった時もあり、出席するつもりで
あったのに、家の片付けなどで機を逸してしまったりということも
あったが、現在の心境としては、正直、どうも気が進まない。
間が空いてしまって、何となく行きづらいという事もあるが、
正直なところ、時間が勿体無いという事と、発言するのが億劫
という事が主たる原因のようだ。
通院となれば、たとえ前日まで出張であったとしても、仕事先から
直接病院へ行く事も多々あるので、基本的な心構えというか、
気合がまるで違っている。
まあ、理屈では参加した方が良い事は解っているのだが、
聞いてもらっているのかどうかもわからない、いわゆる「言いっぱなし」の
発言がどうにも苦痛だ。
聞くばかりでは、ずるいともいえるが、人間、誰しも、自分の話を
聞いてもらいたい、自分を解ってもらいたい、自分を認めて欲しい
という願望があるわけで、別な言い方をすれば、他者によって初めて
自分を認識できる事も少なくない。むしろ、他者が無ければ、
自分の存在は無いのである。「言いっぱなし」というのは、
自分にとっては大変な事である。
逆に「聞きっぱなし」というのは、別段何ともないし、余計な
詮索をする気も無い。
だが自分の発言となると、俄然あれもこれも、どれもそれも
一切合切話したくなる。
普段、必要以上のことを喋らない方ではあるが、自分の存在を
認めて欲しいという願望は人一倍強いのであろう。
こうして、文書にまとめた内容だけでも、膨大な量であるのに、
それを簡潔にまとめて、限られた時間内で体験発表をするなど、
とてもではないが、おぼつかない。他の方もおっしゃるように、
語り出せば、何時間あっても、足りないし、発表できるのは自身の
思いのほんの少しの部分でしかないのだ。しかも言いっぱなしによって、
それが人にどう伝わったのか、共感されたのか、反発されたのか、
右から左に流されたのか、聞いてもらっていたのかどうかさえ、
解らない状況というのは、非常に辛いものがある。
後は、時間的なものだ。2時間の会合に参加するとなれば、休日の
4時間以上を費やす事になる。非常に勿体無いという感が拭えない。
土曜日が通院の日である以上、連日となると更に物憂い気が
してしまう。
参加当初は、もちろんそんな風には思っていなかったが、回復の中、
頭の回転に行動が追いついてくるようになると、途端に、周りが
めまぐるしいほど忙しくなってくる。
仕事にしても、家庭内の事でも、休日の過ごし方にしてもそうだ。
その中で、土曜日、日曜日と続けて、4時間以上の時間を取られる
ということが、理不尽な事のようにも思えてくる。
「何を、どう話しようか。」ということに煩わされる事と、
物理的に時間を取られることで、反って自分の余裕を狭めてしまう
ような気がしているというのも、正直なところだ。
それでは、療法というものの、自分にとっては、本来の目的から
はずれてしまうのではないか?とさえ思えてくる。
。。。と、ここまでつらつらと書いていながら、結局、言い訳や
愚痴である事を、醒めた目で見ている自分もいる。二重人格とは
異なると思うが、どうも、あの幻覚と幻聴とに正面から向き合った
経験から、自分の本音というものを、違う面から至極冷徹に見ている
自分がある。そして、愚痴や、言い訳も、人間らしさである事も
容認している。
気が付いたこと、察知した事に対して取る行動が、迅速になってきた
にもかかわらず、どうも、行動を伴わない、観念ばかりが堂々巡り
していた頃の歯切れの悪さというか、うだうだしたものが、
この月例会参加ということに関しては、残っているようだ。
おかしな屁理屈をこねていないで、きっぱりと参加すれば
良いということなのだ。