Various Topics 2

海外、日本、10代から90代までの友人・知人との会話から見えてきたもの
※旧Various Topics(OCN)

ル・モンドのポンス記者と寺島実郎氏の意見、そして井戸謙一元裁判長の言葉

2011年08月26日 | 原発・核・311

おなじみフランスねこさん(ブックマーク参照)がブログで、ル・モンド紙日本特派員のフィリップ・ボンスの記事を紹介してくれていました。

『国は私達を守ってくれるのか?「広島から福島へ 原子力の悲劇は続く(その1)」ルモンド紙(86日)』

http://franceneko.cocolog-nifty.com/blog/2011/08/86-5756.html

『国は私達を守ってくれるのか?「広島から福島へ 原子力の悲劇は続く(その2)」ルモンド紙(86日)』

http://franceneko.cocolog-nifty.com/blog/2011/08/286-fb5d.html

この記事のなかでポンス記者は以下のように述べていますが、まさに、ずばり問題の本質を突いてくれています。

“福島原発の事業責任者である東京電力の腐敗や、原発に賛成か反対か、という問題以前により重要なのは、国民を守ることをしなかった国家の問題であり、国民を代表していながら国民を放射能から守るという当然の期待を裏切った国会議員における問題である。国家は国会議員同様、国民が危険を知らされる権利を無視し、無視したのでなければそうした権利を剥奪した。”

“国民は、政府が危険な道具を制御するための器具を持ち合わせていなかった事実を発見した。原子力産業の監視を行う最高機関が原子力の推進を受け持つ経済産業省の指示下に置かれている。そして経済産業省は各地域で電気会社が市場を独占し、自らの決まりを人々に強制するのを許してきた。1990年代の終わりに現状を変えようとした幾人かの経産省官僚たちは政治家たちに道を塞がれ、その試みは揉み消された。

加えて国家は、地方自治体に対し湯水のごとき補助金によって原子力発電所の建設を受け入れるよう説得した。全ての住民が賛成だった訳ではない。1973年以来、原発反対者達は電力会社に対し地震や津波の危険性を過小評価しているとして裁判を起こして来た。これらの原発反対者達は、常に裁判に負けた。そして、彼等の議論はメディアからも黙視された。近所の住民達から村八分にされ、仕事先から監視され、人々は頭を押さえつけられた。”

さて、そういえば、三井物産戦略研究所の寺島実郎氏が、研究所のホームページのなかで、以下のように意見を述べています。

“日本の立ち位置を熟慮して、原子力を一定の比重で維持するにせよ、現在の体制のままで進むことは問題である。原子力だけは極端なリスクを潜在させるエネルギー源であり、福島の教訓を整理して、より国家が責任をもって管理する体制に変えるべきであろう。具体的には、現在は九つの電力会社と日本原子力発電、Jパワー(電源開発)にいう一一の会社で原子力発電事業を推進する国策民営体制をとっているが、原子力だけは電力事業者から分離統合し、一つの国営企業によって管理運営する体制(国策統合会社)を志向すべきである。

主な理由は三点ある。一つは原子力技術者・専門家の分散という問題である。現在、原子力工学の卒業者が三・五万人、うち電力事業者に約九千人が働いているが、それらを統括管理できる体制にはなっていない。とくに福島のように「多重防御」が破綻した緊急事態に対応する専門家による戦略体制を個別電力事業者に期待することには限界がある。二つは個別の電力事業者では「自社内の効率性と経済性追求」という壁を乗り越えられないことである。たとえば、「廃炉」の判断にも安全投資にも経営とのバランスが優先されてしまう。三つは経営リスク限界を超えた賠償責任、福島の賠償スキーム議論を考えても、一〇兆円を超す無限賠償責任が数十年に亘って発生する可能性を抱えた事業を、公開上場企業で抱えることができない。

日本も原子力安全委員会と経産省管下の保安院とを統合し、米国のNRC(原子力規制委員会)のようなものを作って規制を強化し民間会社体制でやればいいと考える人も多いが、ペンタゴン(国防総省)が参画主導して、軍事と民生を一体化させた核管理を進める意思を内在させているNRCと日本の原子力規制の行政体制は本質的に違う。日本はむしろフランス型の「EDFAREVA体制」(国営による燃料確保・原子力発電・再処理などサイクル全般の統合管理)を目指すべきであろう。

平和利用に徹している国だからこそ、国が責任をもって管理する体制で原子力と向き合うべきなのだ。ただし、国策統合会社などを作れば非効率な「親方日の丸」の会社ができるだけとの批判には耳を傾ける必要がある。そこでIAEAとの信頼関係をベースに思い切り「開かれた原子力」という体制の確立を主張しておきたい。経営陣が日本人だけである必要はない。また平和利用に徹して原子力発電を求める新興国の出資を招いてもよい。アジア広域の核燃料サイクル(再処理)を共同で運営する体制を目指すことも検討されるべきだ。福島の苦渋の体験さえも的確に伝え共有する「開かれた原子力」を目指さなければ、「原子力発電のシステム輸出」など期待すべくもない。もし将来、日本国民の合意が熟慮の決断で「脱原発」に向かうにしても、国家管理を強める体制に移行しておくことは意味のある一歩であろう。 

(『いま原子力をどう位置付けるのか?より国家が責任を持つ体制を求めて』

http://mgssi.com/terashima/nouriki1108.php

寺島氏は『安全原発擁護者』でありますが、彼の言い分には頷けるものもあります。しかし、上記については疑問。彼の提言は、まずポンス記者が指摘するような『基本的構造の問題』を解決することなしには意味をなさないと思います。

(ついでに言うと、IAEAさえ、原発ビジネスに利害関係があるので、当てにならない。)

さて、ポンス氏が記事中原発裁判について少し触れていました。

最後に、2006年の志賀原発訴訟で原発差し止め判決をした元裁判官の井戸謙一さんのインタビュー記事を紹介します。

阿修羅、gataroさんの投稿:

原発差し止め判決を下した元裁判官・井戸謙一さん(朝日新聞)

http://www.asyura2.com/11/genpatu12/msg/263.html

井戸さんは、インタビューの終わりで、

“どこからも、何の圧力もなく、主張と立証だけをもとに裁判官3人だけで相談し、淡々と判決を言い渡す。自分がいずれ裁判長になったときは、そういうふうに仕事をしたいと思っていました。原発訴訟もそうですが、訴えをどこにも聞き届けてもらえず、司法に一縷(いちる)の望みをかける例が多い。それを正面から受け止めて、救済すべきものはきちんと救済する。そこに本来、裁判官のやりがいはあります。司法は、市民の最後の砦(とりで)であるべきです”

と仰っていますが、司法に限らず、体制を作る人たちが、こうした心意気を持つことなしには、何も変わらないのではないでしょうか。

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