相変わらず、断捨離続行中。
息子が小学校で書いた作文が保管してあった箱から、中学1年頃に書いたと思われる戦争についてのレポートがでてきました。まとめ方と文章にちょっと難がありますが、貼り付けさせてもらいます。
アジア・太平洋戦争の体験談
はじめに
今年は広島、長崎に原爆が投下されてから、そして終戦から60年になる。僕は終戦までにどんなことがあったのかと思ったので、親戚の人にインタビューをしたりして調べていくこととした。
(※資料略)
インタビューして分かった内容
①母方の祖母の長兄
長兄は召集令状(赤紙)が来て京都にいたが、京都は爆撃を受けなかったため、無事終戦を迎えた。(重要文化財があったため、米軍が爆撃をさけた。)
⓶次兄
学校の推薦で海軍に志願したが、船に乗る前に終戦を迎えた。
③祖母の長姉の夫
召集令状が来て満州に配属する予定だった。新しい軍服をもらい喜んでいたが、飛行機がなかったため行きそびれた。軍服も没収された。
④祖母の母
7月24日にB29の襲撃を受けて辺りが被害を受けて、日本は終わりだと思った祖母の母は、外に鍋を出し小豆などを使い、ぼたもちをつくり近所に配った。しかしその後襲撃をうけることなく終戦になり皆生き延びた。食料に困っていた近所の人達はものすごく感謝したという。
感想・分かったこと
①年表を見ての感想
人が山の様に死んでいるのが分かる。戦争の数もとても多い。僕は世界がなにかに取りつかれたのではないかと思った。(個々の戦争もつなげて考える必要があると思う。)
⓶インタビューの感想
一般市民も兵隊同様に危険な目にあっていたことが祖母の母の話から分かった。戦争に関係ない市民でも身を守ることをしないといけない時代だったのだなと思った。
参考資料:
東京新聞
教科書
私はこのレポートを見たことも読んだこともないし、息子がいつ私の母(息子にとって祖母)や田舎の伯母たち(息子にとっては大伯父、大伯母)に戦争の話を訊いたことも知らなかったので、驚きました。
戦後60年ですから、2005年・・・私の両親の故郷は愛知県ですが、この夏、東京に住む叔父夫婦と私の母が車で故郷に帰るということで、息子が一緒についていき、ちょうど開催されていた愛知万博に連れて行ってもらいました。
まさか愛知万博だけでなく、宿題(?)の為のインタビューも目的としていたとは、思ってもみませんでした。
戦争では、母方(父方共、)親族で命を落としたものおらず、戦争体験談としてはあまり悲惨さは息子に伝わらなかったと思います。
しかし、彼が「世界がなにかに取りつかれていたのではないか」と書いていたのは、インタビューで、「伯父達が喜んで戦争に行こうとしたこと」に対する違和感があったからこその言葉だった、気がします。
オマケ:
なお、祖母(息子にとっては曾祖母)が戦争末期に死を覚悟して、小豆でぼた餅だったか、赤飯だったかを作って近所にふるまった話は、私も聞いたことがあります。
これができたのは、母の実家が農家であったからです(祖母がふるまったといっても、祖父も家にいたでしょうから、実質彼が祖母に提案したのかも。)。
農家とはいえ、あるだけ食べ物を使ってしまった一家・・・長い事サツマイモだけを食べる羽目になったということでした。
(母は、ほとんどサツマイモを口にしません。)