昨年8月に書いたブログ記事
バレエ・リュス人脈-6(アメリカに渡ったNicolas de Gunzburg) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)
の中でこう書きました。
抜粋:
ロシアの銀行家、鉄道王のギュンツブルク家は、東欧系ユダヤ人アシュケナジムではなくて、セファルディム。
セファルディム - Wikipedia
ただし、このギュンツブルクの名にあやかって、名字に使うようになったアシュケナジムもいるし、改宗、改名、結婚などによって、「セファルディのギンツブルク家」と呼べる人達は、ロスチャイルド家のように多くはないのではないか、と思います。
いずれにしても、ヴェルナー・ゾンバルトが1912年に書いた、
「ユダヤ人はドイツの芸術、文学、音楽、演劇、新聞を牛耳っている。」と言う部分については、間違いではなかったと、と思えます。
Grasia Mendes Nasi-3(ヴェルナー・ゾンバルトの理論) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)
そして、”映画と”ファッション業界も”とも・・。
今回、アラン・ドロンから始まって、「マダム・クロード」→「戦前の高級売春も含めたサロン、白系ロシア人、ユダヤ人人脈」→「映画、ファッション、芸術」ときて、ヴェルナー・ゾンバルトは正しいと、感じ、そしてまた、力を持ったユダヤ人のなかには、トルコ・ギリシャ系のユダヤ人もいたのではないかと思うようになりました。。
ここでいう、ギリシャ系ユダヤ人系というのは、ロマニオット以外にもスペインからオランダ・ベルギー経由、トルコなどに逃げたセファルディム。
ロマニオット - Wikipedia
Grasia Mendes Nasi-1(欧州ユダヤ人ビジネスネットワークの始まりはナシ家(=メンデス・ベンヴェニステ家)か?) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)
Grasia Mendes Nasi-2(コンベルソ脱出ルートとユニテリアンとルナーソサエティ) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)
パリオリンピックのオープニングセレモニー-3(バルバラ・ブッチ・ギリシャ神話) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)
ユダヤの血がながれている欧米人は多数のはず - Various Topics 2 (goo.ne.jp)
(この一族、もしくは北アフリカ系のセファルディムは、映画『ミナ』に描かれていたような、「ゴイ」という言葉を使うようなユダヤ人だ対応に思います。
フランス映画『ミナ』とユダヤ人-4(「ゴイ」とは) - Various Topics 2 (goo.ne.jp))
ロシア革命で国を離れることになった、上流階級のセファルディムの中で、注目したいのが、上記のブログに書いたニコラ・ド・ギュンツブルク(これは改名前の日本語訳。米国でuの上のウムラートを削除に改名。日本語ではガンツビュールとされているものが多いです。どちらにせよ。セルジュ・ゲンズブール、ナタリア・ギンズブルク、元の名は同じ。)
Nicolas de Gunzburg - Wikipedia
Google翻訳:
ニコラ・ルイ・アレクサンドル・ド・ギュンツブルク (フランス語の発音: [ni.kɔ.lɑ lwi a.lɛɡ.zɑ̃.dʁə d(ə) ɡœ̃z.byʁ]; 1904 年 12 月 12 日 – 1981 年 2 月 20 日)、ニコライ・ド・ギュンツブルク男爵としても知られています。 フランス生まれの雑誌編集者で社交界の名士でした。 彼は、『Town & Country』、『Vogue』、『Harper's Bazaar』など、いくつかのアメリカの出版物の編集者になりました。 彼は 1971 年に国際ベスト ドレッサー リストの殿堂入りを果たしました。[1][2]
(中略)
ギュンツブルクは主にイギリスで育ち、父親は銀行会社ハーシュ商会で働き、リッツ ホテル開発コーポレーションの取締役を務めていました。ギュンツブルクは、晩年の青春時代をフランスで過ごしました。 1920 年代から 1930 年代のパリで裕福な生活を送っていたギュンツブルクは、贅沢にお金を使い、彼の仮装舞踏会には建築家や芸術家がデザインした豪華なセットが使われていました。 ギュンツブルクには異母姉がいた[6]。
(中略)
スター・オブ・ヴァンパイア (1932)
デンマークの映画監督カール・テオドール・ドライヤーはパリでギュンツブルクと出会った。 これが表現主義的なホラー映画『Vampyr』(1932年)の共同製作につながった。
(中略)
米国への移民
伝説によれば、ギュンツブルクは父親の死後、家に残っていた財産が存在しないことを知ったという。 当座預金口座に残っていたお金だけを残して、彼はアメリカ行きの航空券を購入し、残ったお金で1934年7月に仮装舞踏会を開催した[10]。
(中略)
1934年にフルコ・ディ・ベルドゥラとナタリー・パレ王女とともにアメリカに到着し[10]、ガンツバーグは最初にカリフォルニアに定住した。 彼は、成長を続けるハリウッドのアーティストの植民地に避難した多くのヨーロッパ移民の一人でした。 ギュンツブルクはすぐにカリフォルニアを捨ててマンハッタンに移り、そこが彼の残りの生涯の故郷となった。
(中略)
ギュンツブルクは1936年11月10日にニューヨーク市に到着し、リッツ・タワーのアパートを借りた[11]。 ニューヨークのフランス総領事館からの彼の移民証明書には、彼は「無職」と記載されていた。 しかし、その年の初めに提出されたカナダ国境越え文書の中で、彼は1936年4月から9月までニューヨーク市に滞在し、職業は「銀行家」、フランスの住所はパリのヴァンドーム広場15番地であると述べ、 いとこのピエール・ド・ギュンツブルク男爵(パリのイエナ通り54番地)を参照している[12]。
出版経歴
ギュンツブルクは『ハーパーズ バザー』の編集者および『タウン&カントリー』の編集長を経て、1949年に『ヴォーグ』の上級ファッション編集者に任命された[10]。
(中略)
黒、グレー、白のミニマルなワードローブで知られ、彼のグレーのスーツはウィーンの仕立て屋、クナイズ社製でした[14]。ギュンツブルクは 1971 年にヴァニティ フェアの国際ベスト ドレッサーの殿堂に選ばれました。 ある『ヴォーグ』ライターは彼を次のように描写した。 細身で魅力的な男性で、非常にドライなウィット、物まねの才能、そしてシンプルだが洗練された生活の快適さに対する鋭く発達したセンスを持っています。
ギュンツブルクはまた、ビル・ブラス、オスカー・デ・ラ・レンタ、カルバン・クラインという、後に業界を支配することになる3人の新進気鋭のファッションデザイナーの指導者でもありました。 ギュンツブルクが1960年代半ばに出会ったこの最後の人物は、おそらく男爵の最も有名な弟子であり、クラインは男爵の死後間もなく出版されたインタビュー誌でビアンカ・ジャガーやアンディ・ウォーホルとともにギュンツブルクについて論じた。
ギュンツブルグは『ハーパーズ バザー』の編集者および『タウン&カントリー』の編集長を経て、1949年に『ヴォーグ』の上級ファッション編集者に任命された[10]。
(後略)
参考:
アラン・ドロン追悼・フランス映画界の戦後-11(サロンとセレブとヴィシー政権) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)
欧州映画界とブルジョワ-3(ELLEの創刊者夫妻~『シェルブールの雨傘』) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)