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20世紀初めの亡命ロシア人-1(ラスプーチン殺害の真実は?)

2024年09月09日 | 欧州映画界~芸術界ネットワーク

『欧州映画界とブルジョア』シリーズが15番まで書いてきていましたが、ここまで来ると、どうしても亡命ロシア人たちのことを調べていかないと話が繋がらないことに気が付きました。

始まりは、ここから:

欧州映画界とブルジョア-11(フィリッポ・ナルディの娘婿のRoger Vailland) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

で書いた、エルザべス・ナルディの父親、フィリッポ・ナルディは、イギリスのサミュエル・ホーアにお金をもらって、ムッソリーニを援助したといわれています。

このサミュエル・ホーアは、ロシア革命前のラスプーチン暗殺にもかかわっていて、このラスプーチン暗殺実行犯たちの一人が、ココ・シャネルの愛人だったドミトリー・パヴロヴィッチ。バイセクシュアルと言われるドミトリーは、主犯のフェリックス・ユスポフの愛人の可能性あるらしいです。

ドミトリー・パヴロヴィチ - Wikipedia

フェリックス・ユスポフ公は「正義のヒーロー」として描かれることが多いですが、どうも怪しいです。

フェリックス・ユスポフ - Wikipedia

フェリックス・フェリクソヴィッチ・ユスポフ公(ロシア語: Фе́ликс Фе́ликсович Юсу́пов, ラテン文字転写: Felix Feliksovich Youssoupov, 1887年3月23日 - 1967年9月27日)は、ロシア帝国の貴族。 ロマノフ朝に仕えたグリゴリー・ラスプーチンを殺害したことで知られる。

生涯 青年期

 1887年にサンクトペテルブルクのモイカ宮殿で生まれる。生家のユスポフ家はモンゴル帝国のジョチ・ウルス重臣マンギト部に出自する14世紀タタールの雄エディゲ後裔ユスプ(ヨセフのアラビア語形ユースフに由来)を家祖とするロシア屈指の名門。サンクトペテルブルクに4つの宮殿、モスクワに3つの宮殿、クルスク・ヴォロネジ・ポルタヴァ・カスピ海に合わせて37の鉱山・工場・油田を所有しており、ロマノフ家よりも金持ちだったと言われている[1]。

ユスポフは女装の趣味があったとされ、自伝によると12歳の時には既に母ジナイダ・ユスポヴァの衣服を着て女装し、女性ジプシー歌手グループと交流していたという[2]。フェリックスには兄ニコライがいたが、1908年6月22日に浮気相手の夫との決闘で死去したためユスポフ家を継ぐことになった[3]。翌1909年から1913年にかけてオックスフォード大学に留学して美術を学び、同時に同大学内にオックスフォード大学ロシア協会(英語版)を設立した[4][5]。

留学中はオックスフォードのキング・エドワード・ストリート(英語版)14番街地のアパートに住み、料理人、運転手、ボーイ、家政婦を雇い頻繁にパーティーを開いていた。アパートでは3羽のコンゴウインコと「パンチ」と名付けられたブルドッグを飼っていた[4]。また、美術商アルバート・ストップフォード(英語版)や後にイギリス秘密情報部工作員となるオズワルド・レイナー(英語版)と交流し、ハムステッドに住んでいたバレリーナのアンナ・パヴロワとも数回会っている。

(後略)

オズワルド・レイナーの英語版wikipediaから抜粋:

Oswald Rayner - Wikipedia

Google翻訳:

生涯

オズワルド・セオドア・レイナーは、ソーホー・ストリートの呉服屋トーマス・レイナーとその妻フローレンスの息子としてスメスウィックで生まれました。[4] レイナーは1907年から1910年まで、オックスフォード大学オリオール・カレッジで現代語を学びました。オックスフォード在学中、レイナーは同じく同大学に在籍していたフェリックス・ユスポフと親しい関係を築いた。[5] 1910年、レイナーは英国財務省の弁護士となった。[6] レイナーはフランス語、ドイツ語、ロシア語に堪能で、1915年12月、ロシア駐在英国情報局長のサミュエル・ホーア卿の下で諜報員としてMI6に採用された。

彼はホテル・アストリアに住んでいた。1918年にストックホルムに、1919年にウラジオストクに派遣された。1920年に彼はシークレット・サービスを辞め、フィンランドのデイリー・テレグラフ紙の外国特派員となった。[7] SIS 1916年にロンドンとペトログラードの間で交わされた英国諜報部の報告書によると、英国はラスプーチンがロシア政府内の親英派大臣たちを追放したことだけでなく、さらに重要なことに、ロシア軍を戦争から撤退させるという彼の主張を非常に懸念していた。撤退により、ドイツ軍は東部戦線の部隊を西部戦線に移すことができ、連合軍に圧倒的な数で圧勝し、敗北の危機に陥ることになった。これが実際にラスプーチンの意図であったのか、それとも彼が(皇后の手紙が示唆するように)ロシアの死傷者の膨大な数を単に懸念していたのかは議論の余地があるが、英国が彼を戦争遂行に対する真の脅威と認識していたことは明らかである。[8]

ウラジミール・プリシュケヴィッチもユスポフも、額への至近距離からの銃撃については言及していない。[9] 地下室で何が起こったかについてはユスポフからの唯一の説明があり、彼は何度も話を変えている。プリシュケヴィッチは階段を降りて、中庭でラスプーチンの背後から20歩の距離から発砲した。ラスプーチンの後頭部を撃った。しかし、ラスプーチンの後頭部の写真はない。[10] アンドリュー・クックによると、レイナーは実際にラスプーチンを殺した額に3発目の銃弾を撃った人物とされている。[11] 使用された武器の口径は特定できない。[12] 「頭部への銃撃が(英国製の)被覆なしの弾丸によるものであるという仮説は、法医学的所見や警察の法医学的写真によって裏付けられていない。」[13] ネリパは、ウェブリーの.455インチで被覆なしの弾丸が使用された可能性は低いと考えている。なぜなら、その衝撃は異なっていたはずだからだ。

推測 当時ペトログラードには、オズワルド・レイナーとスティーブン・アリーという2人の英国秘密情報部(SIS)職員がいた。彼らは助言をしたかもしれないが、モイカ宮殿にいたかどうかは不明である。[14] レイナーは殺人当日にサンドロの宮殿を訪れていた。[15] この話は、暗殺未遂事件が起こる前にそのことを知っていた英国大使ジョージ・ブキャナン卿[16]とロシア皇帝ニコライ2世との会談によってさらに裏付けられ、ニコライは「フェリックス・ユスポフ公爵の大学時代の友人だった若い英国人がラスプーチンの殺害に関与していたのではないか」と疑っていたと述べた。[17] 当時ペトログラードにいた2人目のSIS職員はスティーブン・アリー大尉で、1876年にモスクワ近郊のアルハンゲリスコエ邸で生まれ、父親はそこで公爵の家庭教師の1人だった。

MI6 のアーカイブには、レイナー、ホーア、その他の英国人エージェントや外交官が殺人に関与したことを示す文書は 1 つもない。[18] 地下室で何が起こったかに関する唯一の記述はユスポフによるもので、彼は何度も話を変えた。おそらく何人かの女性も招待されていたが、ユスポフは彼女たちの名前を挙げなかった。

レイナーが殺人の数週間前にユスポフ (別の将校であるジョン・スケール大尉と共に) と会っていたことは、運転手のウィリアム・コンプトンの日記で確認できる。コンプトンはすべての訪問を記録していた。[19] 最後の記録は殺人の翌夜に書かれた。コンプトンは「ラスプーチンがロシア人ではなく英国人によって撃たれたことはあまり知られていない事実だ」と述べ、犯人はコンプトン自身と同じ地域出身の弁護士だったことを示唆した。レイナーがコンプトンの故郷から 10 マイルほど離れた場所で生まれたことは疑いようがない。

計画通りには進まなかった証拠は、殺人事件の8日後にアリーがスケールに書いた手紙にほのめかされている。「ここでの事態は完全に計画通りには進んでいないが、我々の目的は明らかに達成された。…より広範な関与について、いくつかの厄介な質問がすでになされている。[20] レイナーは未解決の問題を解決しており、間違いなくあなたに説明するだろう。」[21] イギリスに戻ったオズワルド・レイナーは、従妹のローズ・ジョーンズにラスプーチン殺害現場にいたことを打ち明けただけでなく、殺人現場で手に入れたと主張する弾丸を家族に見せた。[22] 「さらに、オズワルド・レイナーは農民殺害に関するユスポフの最初の本を翻訳しており、2人が自分たちの目的に合うように物語を作り上げていたという興味深い可能性が生まれた。」[23]

(後略)

 

仮置き:

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