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フランス映画界と20世紀-ロジェ・ヴァディム

2023年04月13日 | 芸術・本・映画・TV・音楽

フランス映画界と20世紀 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

にロジェ・ヴァディムのウィキペディアを乗せましたが、彼を紹介している映画です。

"Vadim, Mister Cool" (2016) documentary - YouTube

ウクライナからの白系ロシア人難民(と言っても、父親はフランスでエジプト総領事までも務めた人)が、なぜこれほどまでの有名人となれたのか。

 

参考:

ロジェ・ヴァディム - Wikipedia

抜粋:

ロジェ・ヴァディム(Roger Vadim、本名:Roger Vladimir Plemiannikov、1928年1月26日 - 2000年2月11日)は、フランス・パリ出身の映画監督・映画プロデューサー・脚本家・作家・俳優・ジャーナリスト。映画監督としてだけでなく、プレイボーイとしても有名。

生涯
父イゴール・プレミャニコフは、ウクライナからの白系ロシア人移民で、同化したフランス人になり、フランスのエジプト副領事にまでなった。9歳で父親が亡くなると母親と共にフランスに帰国した。母親はアルプスの麓に民宿を開業、戦時中はユダヤ人をスイスなどに逃がすための基地としても活用していたという。

ヴァディムは、16歳で舞台俳優としてデビューした。1947年、アンドレ・ジッドの紹介でマルク・アレグレ(Marc Allégret、映画監督)の助手となり、脚本を書き始める(1950年 - 1956年)。また、パリ大学でジャーナリズムを専攻した。

アンドレ・ジッド - Wikipedia

抜粋:

1869年パリ6区メデシス街に生まれる。父ジャン・ポール・ギヨーム・ジッドは南仏ユゼス出身でプロテスタントの家系、パリ大学法学部教授をつとめた。母ジュリエットは北仏ルーアン出身の裕福な織物業者ロンドー氏の娘。叔父は経済学者のシャルル・ジッド。少年期はたびたびユゼス、ルーアン、ラ・ロックの別荘などを訪れた。6歳頃からピアノを習い始め、生涯の趣味とした。8歳の時にアルザス学院に入学。品行不良(自慰の習慣)のため一次停学、病弱のために休校して親戚の家などで保養し、10歳の時にアルザス学院に復学。11歳の時に父が亡くなり、母、伯母、家庭教師によって育てられる。またアルザス学院を退学し、療養のために各地の保養地を転々としたのちにパリに戻る。この頃アンリ・フレデリック・アミエル、ゴーティエ、ハイネを愛読する。14歳の時にアルザス学院再入学するが3カ月で退学。17歳の時にアルザス学院の修辞クラスに入り、ピエール・ルイスと知り合い文学的友情で結ばれる。

1888年にアンリ4世校の哲学学級に転校。レオン・ブルムと知り合い、『ラ・ルヴュ・ブランシュ』誌の編集を手伝う。バカロレアに合格するが、文学に専念するために大学進学はやめる。1990年にルイスを通じてポール・ヴァレリーと知り合い、母方の従姉マドレーヌ・エマニュアルへの思いを主題にした『アンドレ・ワルテルの手記』を執筆し、翌年自費出版。やがてステファヌ・マラルメの「火曜会」に出入りするようになる。『アンドレ・ヴァルテールの手記』はマラルメから絶賛され、その後も象徴主義の影響が色濃い作品を発表する。またオスカー・ワイルドとも知り合う。

北アフリカ
1892年に北仏のナンシーで兵役に就くが肺結核でまもなく除隊。 1893年、親友のポール・アルベール・ローランスと北アフリカ(アルジェリア、チュニジア)を旅行。以後たびたび同地へ赴き、ワイルドとアルフレッド・ダグラス卿にも邂逅、娼婦との交流や同性愛を経験する。この一連の体験がキリスト教的な束縛からの脱却による文学者としての転機となった。

レシとソチ
1895年にマドレーヌと結婚。同年『パリュード』を発表し、これが象徴主義との実質的な決別となる。1897年、『地の糧』を発表。『地の糧』は出版当時はほとんど世評にものぼらなかったが、20年後に新しい青年層に注目され、広く認められるようになった。1902年の『背徳者』においては、生の価値と快楽に目覚め、既成道徳から背をそむけてゆく男の悲劇を描く。この時期の作品はナチュリスムはと呼ばれる流れに位置づけられた。

1908年に『新フランス評論(NRF)』の創刊に参加するが、1号で中断。翌年再刊し、過剰な神秘主義に陥るヒロインの愛と悲劇を描く『狭き門』を連載、一般読者にも評価を得た。1912年にマルセル・プルーストから『スワン家の方へ』のNRFからの出版を依頼されたが拒否、その後読み直してプルーストに謝罪し、『失われた時を求めて』の2巻以降はNRFから出版されることになった。

 

Marc Allégret - Wikipedia

Google翻訳:

スイスのバーゼル・シュタットのバーゼルで、イヴ・アレグレの兄として生まれた。 マークはパリで弁護士になるための教育を受けましたが、1927 年にアフリカのコンゴへの旅行で彼の恋人 [2] アンドレ ジッドに同行している間、彼は旅行をフィルムに記録し [3]、その後、彼はでキャリアを追求することを選びました。 映画産業。 彼は、シモーヌ・シモン、ミシェル・モーガン、ジャン=ピエール・オモン、ダニエル・ドローム、オデット・ジョワイユ、ジャンヌ・モロー、ブリジット・バルドー、ジャン=ポール・ベルモンド、ライム、ジェラール・フィリップ、ルイ・ジュルダン、ロジェ・ヴァディムのキャリアを発展させた功績が認められています。

アレグレは、1926 年に有名なダダ マルセル デュシャンの短編映画『アネミック シネマ』に協力し、ロバート フローリーとアウグスト ジェニーナの助監督を務めました。 1931 年に、彼は最初の長編映画、Mam'zelle Nitouche を監督しました。 彼はその後の映画「ファニー」で高い評価を受け、長いキャリアを歩み続け、その間に数多くの脚本を書き、50 本以上の映画を監督しました。

(後略)

 

アルザスのJaval家-7(Pauli Louis Weiller) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

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