中国の世界創成説によると、混沌から宇宙が生まれる。
「清陽なる者は、薄靡して天と為り、重濁なる者は、凝滞して地と為る」
たとえて言うと、泥水をかき回してしばらくすると、上のほうが澄んできて、下のほうに泥がたまる。
このようにして、澄んだところが天となり、濁ったところが地となったというのである。
この中国の宇宙生成論を受けた服部中庸や平田篤胤は、上が天、中が地、下が黄泉に分かれたと考えた。
楽園は山頂のような高所にあり、水源である。
エデンから一つの川が流れ出して園を潤し、それは分かれて四つの川になる。
黄河の水源は西王母の住む崑崙山である。
シバの楽園であり、仏菩薩の住むカイラス山の麓にあるマナサルワ湖から、インドの四大河が流れ出す。
川を遡ってユートピアを訪れるという物語(桃源郷もその一つ)が多いが、それは水源には楽園があるからだと思う。
このように上方はすぐれた世界であり、下方にあるのは劣った世界だという神話は洋の東西を問わない。
では地下には何があるかというと、H・G・ウェルズ『タイムマシン』の八十万年後の世界や、F・ラング『メトロポリス』などのように、地下に住む大勢の労働者が地上で安楽に暮らす少数の支配階級のために働くといった物語は多い。
有頂天は須弥山の一番頂上にあるわけだし、奈落の底が地獄である。
プラトン『パイドーン』でも、非常に大きな球状の大地のいたるところにある窪みに我々は住んでいて、真の大地には神々が住んでいる。
すべての窪みは地下の通路によって連結しており、その中で一番大きな割れ目がタルタロス(地獄)である。
地下にある池で生前の善悪の判定がなされ、重大な罪を犯した者はタルタロスへ、敬虔に生きたと判定された者は真の大地(天)に住むと書かれている。
ということで、上下、高低、中心と周辺は、善悪、優劣、浄穢、貴賎、尊卑などの価値を表している。
『論註』によると、浄土は山や谷がなく、平坦だと書かれてあるし、辺境がないとも説かれている。
なるほど、浄土と楽園、ユートピアとはこの点が違うのかと納得したくなるが、『観経』を見ると、浄土には八つの池があり、そこから水が流れ出しているとある。
水が流れるということは、浄土も正確には平らではなくて、斜面になっているわけで、池のあたりが一番高所なわけだ。
そして『大経』では、道場樹という巨木が浄土にはあるそうで、これはエリアーデの言う、世界の中心にあり、天と結びついている世界樹を連想させる。
浄土の中心に大木があり、その根元に池があって、八方に水がゆるやかに流れている、そんなイメージである。
となると、浄土にも上と下、中心と端っこがあるわけで、ちょっと困った話ではある。
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民族に伝承される世界観(コスモロジー)は、空間論ばかりではなく、時間論や価値論を含んでいます。何をなしてはいけないか、何をなすべきかということも含んでいるのが、民族的な世界観だと思います。
http://www.tabiken.com/history/doc/K/K098L200.HTM
けれど、私たちの住む時代はそういった同じ価値観を有している狭い地域の人々とだけ暮らしているのではないというものだと思います。だから、そこに伝統的価値観の衝突、あるいはその消失という現場に立ち会っているのだと思います。それは、帰依処、故郷、ふるさとの喪失だとも言えると思います。(つづく)
http://am.tea-nifty.com/ep/2004/08/sapia.html
ところが、プロジェクト卍さんのおっしゃる「伝統的価値観の衝突、あるいはその消失という現場」、すなわち神話(物語ですね)を共有する共同体の崩壊ということを阿満利麿も言っています。
依りどころを持たない現代の日本人が何を依りどころとするか。
真宗の人は真の依りどころは阿弥陀さんだなんて言うわけですが、これまた崩壊していることは事実です。
じゃあ、どういうふうに真の依りどころは阿弥陀さんだということを表現するか。
前途は多難です。