三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

『貧魂社会ニッポンへ』1

2008年12月16日 | 

路上生活者支援をされている神父さん(ホームレスという言葉は使いたくないそうだ)の話を聞く。
路上で生活している人に食べ物や着る物をあげたり、支援するということ、考えてみればマザー・テレサがしていたことと同じである。
マザー・テレサならみんな尊敬するのに、日本で同じことをすると、物好きだという目で見がちではないかと思う。
で、その神父さんは路上生活者の問題は人権問題だと言われていた。

人権とは何か。
今年は世界人権宣言60周年。
第一条は「すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である」
路上生活者には具体的にどういう権利が損なわれているのか。
「人種、皮膚の色、性、言語、宗教、政治上その他の意見、国民的若しくは社会的出身、財産、門地その他の地位又はこれに類するいかなる事由による差別をも受けることなく、この宣言に掲げるすべての権利と自由とを享有することができる」
「生命、自由及び身体の安全に対する権利」
「法の下において平等」
「衣食住、医療及び必要な社会的施設等により、自己及び家族の健康及び福祉に十分な生活水準を保持する権利並びに失業、疾病、心身障害、配偶者の死亡、老齢その他不可抗力による生活不能の場合は、保障を受ける権利」
etc

で、人権がさも悪いことのように言う人は、まずこうした権利を自ら放棄すべきだと思う。
もっとも「思想、良心及び宗教の自由に対する権利」「意見及び表現の自由に対する権利」をも認めないのだったら、「人権派は」云々と言えなくなるのだが。

それはともかく、『貧魂社会ニッポンへ』に本田哲郎神父と島薗進氏との対談が載っている。
あまりかみ合っているようには思えない対談だが、本田神父の言葉にはなるほどとうなずかされる。

「誰かを愛そうと努力しない方がいいよ」というのが釜ヶ崎で生活する本田神父の結論だと言われる。
「愛する相手というのは、自分の連れ合い、フィアンセ、家族であるとか、限定されるべきものなんです。それをキリスト教がよく言うように、博愛主義とか、互いに愛し合いなさいとか、隣人を自分と同じように愛しなさいとか、ひいては敵をも愛しなさいとか、愛する努力をするからこそ偽善者の山が築き上げられる」
きついお言葉で、バチカンからお叱りを受けるのではないかと心配になるが、よくわかる。

愛はエロスとアガペーとがある。
エロスとは、家族とか、連れ合いとか、恋人同士に対する愛情だそうだ。
「エログロと悪い意味では捉えないで、もっと種の保存のための大事なエネルギーとしてのエロス。このエロスはその役割を果たし終えたら、だんだん薄らいで行く方がいい。薄らいでいって当たり前。ご夫婦のアツアツのときの愛と、十年、二十年、三十年経ってからの愛。これが同じであったら気持ちが悪い、怖い感じがします。だんだんと薄らいでいって、なにも疚しいことはないんです。親の子どもに対する愛もそうです。「愛は永遠です」なんて教会ではいうんですが、そうではない」
結婚していない神父さんだからこそ言える言葉かもしれない。

では、アガペーとは。
「聖書に出てくるアガペー、これをずっと愛と訳してきてしまった。アガペーは愛ではなかったんですね。相手の人を尊重して、大切に関わる。好きとか、愛情ってことは全く出てこない」
日本で最初に聖書が翻訳されたとき、愛という言葉は「お大切」と表現されたそうだ。

「人が人として大切にする」ことが人権だと本田神父は言う。
「目の前の野宿を強いられている人の前に立って、「この人は自分の親兄弟のように自分を愛しているだろうか」ってね…。もう最初からお手上げですよ。「自分の親友のように好きになれるだろうか」、これも大抵はノーです。あまり知らないですしね。だから、「愛せるか」とか、「好きになれるか」というところで考える必要はなかったんだとようやく気がついた。「大切にしなくちゃ」、これだけだった。大切にしようとしたときに、相手は何を望んでいるだろうか、そこに気持ちが行くんです。「愛さなくちゃ」と思っていたら、相手の本当の願いなんてどこかに吹っ飛んじゃっているんですよ」

路上生活をしている橘安純氏は
「ぼく自身は、野宿している人の中でも、真っ黒に汚れている人、匂いのする人たちには差別意識っていうか、あの人たちと自分は違うっていう感覚があります」
と率直に語っているし、永原健二氏も
「たぶん俺がふつうの生活していて、ホームレスが周りに来たら嫌やと思う。だから、ホームレス好きな人間なんかおらんと思う。でも、優しさから、「頑張って」って、してくれるんやと思う」
と言っている。
嫌いな人間や嫌なやつを愛するのは不可能だが、大切にすることならできると思う。

でも、橘安純氏が
「野宿者襲撃があって、学校で人権教育をしているけど、一部の先生はね、一生懸命に問題をやっていても、本気でやっていないと、生徒は分かると思う。結局、へたな人権教育をやったら、建前と本音を使い分けるのが大人なんだって言ってるようなもので。……今のやっている教育委員会とか、行政のやっている人権教育っていうのは、建前と本音を使い分けろって言ってると思うんですよね。
だって小学校中学校のその散水装置(釜ヶ崎周辺の小学校では、学校の周囲のフェンスに穴の開いたホースがつけられ、定期的に水が出る。学校周辺で野宿できないための装置)を見ればね、あれ見ただけで、これは完全に野宿者排除の装置だと思うし。あんなのを堂々といつまでもつけていられる先生っていうのが……」

と語っているように、現実の場となると自信がない……。

「大切に」ということだが、
「自分が自分として大切にされたいというのはみんな共通して持っている、ほとんど失われない本能みたいなものだと思います。自己保存、自分を大切にしたい、誰でも持っているものだと思います。素直に自分が大切にされたい分、その人も大切にするためには、こっちの押しつけでは話にならないわけですよね。だとしたら、愛せるように努力することは無意味。好きになる努力、これも無駄なこと。大切にしたい、だったら聞くしかないじゃない。だったら謙虚に本当はどうなりたいかと、そこで真剣に関わる」
という本田神父の話は、阿弥陀如来の本願の説明だと言ってもいいように思う。

本願とは「すべての衆生を救う」という願いなのだが、じゃ「救いとは何か」ということが問題となる。
「あらゆる衆生(人間に限らない)を大切にしたい」と解釈すれば、すっと受け取れるように思う。
それと、供養とは仏に供物を捧げるのが本来の意味だが、竹中智秀師は「供養とは、そのものを大切にし、尊敬し、礼拝する心」と話されていた。
本田神父の言うことと通じているように思う。

釜ヶ崎でケースワーカーをしている入作明美氏が、
「本当に大切なことは、誰かに自分の話を聴いてもらえた、自分のことを分かってもらえた、自分の気持ちに心から共感してもらえたという、満たされた経験を自らが持っているかどうか、ということだと思うのです」
と言っていること、これが救いと言っていいなと思った。

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