三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

南京事件 2

2009年10月27日 | 戦争

昭和12年12月から13年3月にかけての南京で一体何があったのか。
以下、笠原十九司『南京事件論争史』と秦郁彦『南京事件』からの引用。

「(東京裁判で)検察側が立証したのは、南京占領直後中国側の軍事抵抗がすでに終わっていたにもかかわらず、日本軍は虐殺、強姦、略奪、その他の非人道的行為を武装解除していた中国兵や市民にたいして大規模におこなった事実、そうした不法、残虐行為は少なくとも南京陥落後の六週間にわたって大規模におこなわれたという事実であって。そして、南京の日本軍による残虐行為について、日本政府の高級官僚や軍部指導者が事件当初から外交筋、報道関係などから詳細な情報を受けていたという事実であった」
1937年12月13日、南京は陥落した。
南京事件の情報は発生と同時に外務省に報告が送られ、さらに陸軍省、海軍省当局に伝えられている。(以上、笠原)

12月13日の南京陥落を目撃した外国人ジャーナリストは5人いた。
第一報は早くも12月18日の「ニューヨークタイムズ」でダーディンによって南京事件が報道されている。
「一般市民の殺害が拡大された。警官と消防夫がとくに狙われた。犠牲者の多くは銃剣で刺殺された」
「日本軍の略奪は市全体の略奪といってもよいほどだった。建物はほとんど軒並みに日本兵に押し入られ、それもしばしば将校の見ている前でおこなわれた」
「多数の中国人が、妻や娘が誘拐されて強姦された、と外国人たちに報告した」
etc
1938年2月ごろまで南京にいたフィッチは「九週間の間、昼も夜も日本軍の暴行はつづいた。とくに最初の二週間がひどかった」と新聞に報告している。
南京進軍の第十軍には「老若男女をとわず人間を見たら射殺せよ」という命令が出ていたという。(以上、秦)

南京虐殺の責任者とされる中支那方面軍司令官松井石根大将と1938年1月1日に話をした日高信六郎大使館参事官は「同将軍は部下の中に悪いことをしたものがあったことを始めて知ったといって、非常に嘆いておられました」と述べている。
1938年1月4日付けの参謀総長閑院宮からの訓示に「軍紀風紀において忌まわしき事態の発生近時ようやく繁を見、これを信ぜざらんと欲するもなお疑わざるべからざるものあり」とある。
1938年1月12日、阿南惟幾少将は中支那方面軍の軍紀について「軍紀風紀の現状は皇軍の一大汚点なり。強姦、略奪たえず」と報告している。
宇都宮直賢少佐の回想録に「私が南京駐在の日本領事たちと現地ではっきり見聞したところでも、多数の婦女子が金陵大学構内で暴行され、殺害されたことは遺憾ながら事実であり、実に目を蔽いたく光景だった」とある。
畑俊六大将の1938年1月29日の日記に「支那派遣軍も作戦一段落と共に軍紀風紀ようやく頽廃、掠奪、強姦類のまことに忌まわしき行為も少なからざる様なれば、この際召集予后備役者を内地に帰らしめ現役兵と交代せしめ、また上海方面にある松井大将も現役者をもって代わらしめ、また軍司令官、師団長等の召集者も遂次現役者をもって交代せしむるの必要あり」と杉山陸相に進言したと記している。
そして、1938年2月14日に松井石根中支那方面軍司令官は解任された。
1938年2月7日に挙行した慰霊祭の終了後、松井大将は飯沼守少将に「南京入場の時は誇らしき気持ちにて、その翌日の慰霊祭またその気分なりしも、本日は悲しみの気持ちのみなり。それはこの五〇日間に幾多の忌まわしき事件を起こし、戦没将士の樹てたる功を半減するにいたればなり」と訓示した。
松井石根大将は2月7日の日記に「今日はただ悲哀そのものにとらわれ責任感の太く胸中に迫るを覚えたり。けだし南京占領後の軍の諸不始末とその後地方自治、政権工作などの進捗せざるに起因するものなり」と書いている。(以上、笠原)

昭和13年夏、岡村寧次第十一軍司令官に中村陸軍省軍務局長が「戦場から惨虐行為の写真を家郷に送付する者少なからず、没収すでに数百枚」と語っている。(秦)

1938年7月13日、岡村寧次中将は「従来派遣軍第一線は給養困難を名として俘虜の多くはこれを殺すの悪弊あり。南京攻略時において約四、五万に上がる大殺戮、市民にたいする掠奪強姦多数ありしことは事実なるがごとし」と記している。
「飯沼守日記」には山田支隊だけで捕虜一万数千人を刺殺、機関銃殺で処刑したこと、難民区に将校が率いる部隊が侵入して強姦したことが記述されている。
しかし、東京裁判で飯沼守少将は、多少の暴行、強姦はあったが、南京暴虐事件などといわれる事件はなかったと証言している。(以上、笠原)

巣鴨拘置所で教誨師をしていた花山信勝師は、松井石根が死刑判決が出た後にこう語ったと書いている。
「南京事件はお恥ずかしい限りです。(略)慰霊祭の直後、私は皆を集めて軍総司令官として泣いて怒った。そのときは朝香宮もおられ、柳川中将も軍司令官だった。折角、皇威を輝かしたのに、あの兵の暴行によって一挙にしてそれを落としてしまった。ところが、このあとでみなが笑った。甚だしいのは、ある師団長の如きは『当たり前ですよ』とさえ言った」
この師団長とは中島今朝吾第十六師団長のことらしい。
秦郁彦氏は「中島第十六師団長のサディスト的言動」という表現をしている。
中島今朝吾師団長の日記には「大体捕虜ハセヌ方針ナレバ片端ヨリ之ヲ片付クルコトトナシ」と書かれ、松井石根軍司令官の注意に対し中島師団長は、「強姦の戦争中は已むを得ざることなりと平然として述べる」ことをするような人だった。(以上、秦)

1943年に中支那派遣軍憲兵隊教習隊長が作成した『軍事警察勤務教程』には「支那事変勃発初頭すなわち南京陥落直後の頃においては、中支における軍人軍属の犯罪非行はすこぶる多く、とくに対上官犯など悪質軍紀犯をはじめ、辱職、掠奪、強姦などの忌まわしき犯罪頻発せる」と記されている。
東京裁判では、弁護側は南京事件自体は認めて否定せず、それほど大規模で深刻なものではなかったと主張している。
旧軍将校の親睦団体である偕行社の機関誌『偕行』では南京攻略戦に参加した将校たちの証言を募集したのだが、虐殺をやった、見たという証言や記録がかなり出てきたので、1985年3月号に「南京事件はその当時、すでに軍によって大きな問題として扱われたようである」と指摘し、南京事件が事実だと認めている。(以上、笠原)

三笠宮の自伝『古代オリエント史と私』の冒頭「なぜ私は歴史に関心をもったか」に、次の文章がある。
「一九四三年一月、私は支那派遣軍参謀に補せられ、南京の総司令部に赴任しました。そして一年間在勤しましたが、その間に私は日本軍の残虐行為を知らされました。ここではごくわずかしか例をあげられませんが、それはまさに氷山の一角に過ぎないものとお考えください。
 ある青年将校―私の陸士時代の同期生だったからショックも強かったのです―から、兵隊の胆力を養成するには生きた捕虜を銃剣で突きささせるにかぎる、と聞きました。また、多数の中国人捕虜を貨車やトラックに積んで満州の広野に連行し、毒ガスの生体実験をしている映画も見せられました。その実験に参加したある高級軍医は、かつて満州事変を調査するために国際連盟から派遣されたリットン卿の一行に、コレラ菌を付けた果物を出したが成功しなかった、と語っていました。
 「聖戦」のかげに、じつはこんなことがあったのでした」
そして三笠宮は「これらのショックこそ私をして古代オリエント史に向かわせた第一原因なのです」と書いている。
三笠宮に対して自虐史観だと非難する人はいないだろう。

さらには、裁判で南京事件否定派は負けているのである。
百人斬り競争の記事によって名誉を毀損されたとして二人の将校の遺族が本多勝一、毎日新聞社、朝日新聞社を提訴したが、最高裁で原告側の敗訴が決定した。
逆に、『「南京虐殺」の徹底検証』で被害者の夏淑琴氏をニセ被害者と書いた東中野修道氏は、夏淑琴氏から名誉毀損で提訴され、地裁では名誉毀損が認定された。
判決文は「被告東中野の原資料の解釈はおよそ妥当なものとは言い難く、学問研究の成果というに値しないと言って過言ではない」とまで言っている。(以上、笠原)

『南京事件増補版』によると、南京事件における不法殺害者数が限りなく0に近いと考えている人は、東中野修道氏、藤岡信勝氏、阿羅健一氏たちで、渡部昇一氏は40~50人、櫻井よしこ氏、岡崎久彦氏たちは1万人前後である。
しかし笠原十九司『南京事件論争史』や秦郁彦『南京事件』に載っている証言や文書を読むと、南京事件はなかったと否定することは不可能で、どう考えても不法殺害者がゼロということはあり得ない。
ところが、なぜか日本では南京大虐殺否定説が広く流布され、影響力をもっているのである。
不思議な話である。

秦郁彦氏は『南京事件』のあとがきに「もしアメリカの反日団体が日本の教科書に出ている原爆の死者数が「多すぎる」とか、「まぼろし」だとキャンペーンを始めたら、被害者はどう感じるだろうか」と書いている。
その通りだと言わざるを得ない。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 南京事件 1 | トップ | 南京事件 3 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

戦争」カテゴリの最新記事