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三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

中尾健次『江戸の弾左衛門』

2016年08月22日 | 

江戸時代の被差別民について、中尾健次『江戸の弾左衛門』は私の知らないことがたくさん書いてありました。

浅草弾左衛門は関東の「頭」だった。
「」とは、古代から中世初期(平安・鎌倉時代)にかけては、寺院の財政や宗教的行事を担当する役職を指した。
今なら事務局長的な存在。
中世の後半(南北朝から戦国時代)になると、いろんな職人をしたがえた職人集団の頭も「」と呼ぶようになる。
このころ、寺や神社は多くの職人を抱えていた。
手工業者、境内の掃除や警備の担当などの集団の頭を「」と呼ぶようになる。

江戸時代には、関東で「」といえばエタ身分を指すようになった。

大阪などでは、「」とは「」の頭を指す。

「」という言葉は鎌倉時代からあり、主として神社の境内を掃除する人びとを指していた。

〝掃き清める人〟という意味で「キヨメ」とも呼ばれ、さらに「キヨメ」を「」と呼ぶことになった。

江戸時代になると、初期の段階では〝御仕置役に従事する人足〟を「エタ」と称していたが、元禄以降、「かわた」と呼ばれた人びとを含めて「エタ」と呼ぶようになる。

戦国大名が戦いに勝つためには、砦や城を築くための大工や石組み職人、刀鍛冶、刀を磨く職人、鉄砲鍛冶、皮革職人などの、優秀な職人集団を抱えていなければならなかった。

職人のなかでも、とくに重く用いられたのが、鎧・兜などの武具、鞍・鐙などの馬具をつくった皮革職人で、当時、「皮作」「かわた」と呼ばれていた。

16世紀初頭、専門の皮革職人がいたわけではない。

農村には、職人としての仕事を兼業的におこなう農民がいて、農作業の片手間に大工や鍛冶、皮革の仕事をしていた。
関東各地で皮革の仕事をしている職人たちは、多くはもともと農民だが、戦国大名に皮革の仕事を命じられ、専業化していく過程で、農民から外れていく。
皮革の生産者である「かわた」集団が各地にできた。

それとは別に、寺社勢力が強いところでは、「」のもとに、いろいろな職人集団が抱えられていた。

手工業者もいるし、掃除する職人もいる。
餓死した人の死体を片づけないといけないし、寺社には生活苦に追われた人も入ってくるので、窮民が入るのを食い止めるガードマンの仕事もするし、入ってきたものを捕まえたり、処罰することもある。

こうした、を頂点とした職人集団が関東の各地にあったが、の組織も戦国大名の支配下にくみこまれることになる。

組織の職人の仕事には、手工業(皮革生産など)の部門と治安対策(清掃事業や警備、仕置きの仕事など)にかかわる部門がある。

豊臣氏が滅亡して平和になった元和偃武以降、武具としての皮革の需要が減り、に治安対策の仕事をさせるようになった。

町奉行は、現在なら東京都知事・警視総監・東京地方裁判所判事を兼ねた役職。

北町奉行と南町奉行の二人がいて、一か月交替で仕事をこなした。
町奉行直属の家来が与力で、担当地域が決められていて、今なら区長と警察署長を兼ねる役職。
1人の町奉行に25人の与力がいたから、計50人になる。
与力の家来が同心で、1人の町奉行に140人、計280人いた。
斬首は同心の若手が担っていた。

弾左衛門は関東一円の「」「」の頭として、被差別民衆を統括する町奉行の地位にあったが、町奉行との関係からいえば与力格になる。


「」の語も古代からある。

「公民」に対することばで、戸籍に登録されていない民衆(農民でも口分田を支給されていない人、手工業者など農業以外の生業で生活している人たち)を「」と呼んだ。

江戸時代の「」は意味が違っていて、語源は「貧人」だと考えられる。

「貧人」とは、都市に流入してきた窮民たちのこと。
の仕事は、土木工事や清掃事業で、完成途上にある江戸では、建設作業だけでなく、河川の清掃、行き倒れの死体の片づけなどの仕事がたくさんあった。
10万人が死んだ明暦の大火のときには、焼死体を片づけ、粥の施行人足をつとめた。


には、さまざまな身分階層から入っており、流入・流出を繰り返していた。
ある記録によると、小屋頭の実家は、百姓・漁師・魚屋・旅籠で、出身地域も遠国の者がいる。

天保7年(1836年)の風聞書によると、野(貧人や無宿者)たちはもともと次のような人だった。

・越後・信州・奥州から江戸へ出稼ぎに来て、帰れなくなった者。
・江戸の場末に居住する、その日稼ぎの者で、生活が苦しくなって無宿となり、野同様になった者。
・諸国から伊勢まいりや金比羅もうでに出かけ、物もらいなどをしながら参詣し、そのまま江戸へ出て、野になった者。

中学校や高校
の日本史でやについて習いましたが、こうしたことを先生は話してくれなかったように思います。

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