三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

たばこ総合研究センター編『現代社会再考』(3)

2019年02月13日 | 

たばこ総合研究センター編『現代社会再考』には、れれれと思う論説はいろいろあるけれども、帯津良一「守りの養生から攻めの養生へ 健康とは「自由」のことである」のトンデモさには兜を脱がざるを得ません。
たばこ総合研究センターはどうしてこんな人に原稿を依頼したのかと思います。
こんな感じです。

20世紀は、外に目を向ければ、常にどこかで紛争が起こっているし、内に目を向ければ従来の価値観が随所で崩れて、いささか殺伐たる様相を呈している。
一言でいえば地球という「場」のエネルギーが低下している。
『場』の養生塾」を発足させ、養生を果たしていく人材を一人でも多く輩出することによって地球という場のエネルギーを高めよう。

21世紀は生命の時代です。焦点を合わせるのは身体ではなくて、内なる生命場です。生命場のエネルギーを日々勝ち取っていくという、より積極的で「攻め」の養生です。
攻めの養生の原動力はときどき起こる生命場の小爆発です。小爆発によってエネルギー値が一気に上昇するのです。そして、この小爆発の引き金は心のときめきです。だから、心のときめきは攻めの養生になくてはならないものなのです。
そして、死ぬ日を最高にもっていき、その勢いを駆って死後の世界に突入するのです。攻めの養生に終わりはありません。


目標の一つは青雲の志。
青雲の志とは、本来は聖賢の人になろうとする志。

中国の古代では、立身出世をする人は、すなわち聖賢の人だったのではないでしょうか。私自身は聖賢の人とは、まず行住坐臥、いつでも内なる生命場のエネルギー、つまり生命が溢れ出ている人ではないかと考えました。
どういうことかというと、私たちが攻めの養生を果たして向上していくときの推進力は前述したように時に起こる内なる生命場の小爆発です。小爆発をして体外に溢れ出る。これによって、一気に生命場のエネルギーが高まる。いってみれば物理学でいう「励起」の状態が起こるのではないでしょうか。
その小爆発がいつも起こって生命が常時溢れ出ている人を聖賢の人としたわけです。(略)
私たちは、たとえ病のなかにあっても、攻めの養生を果たしていくわけなのですから、向上していくことを忘れてはならないのです。しかも病は一つのストレス、一つの困難ですから、これを克服するために、健康な日常以上の努力をしなければなりません。それだけに得られる位置取りも健康な日常で得られるものよりはるかに高いものとなります。
こうして病のたびに位置取りを上げて行って、最終に死に直面したときは、死と同じ地平に立つ。同じ地平に立てば、もはや、死は怖いものではなく、まったくの平常心で死後の世界に入っていくことができるようになるのではないでしょうか。ここに病の本来の意味があるような気がしてきました。だから、生老病死という順序になっているのではないでしょうか。


この手の話が好きな人は物理学の用語を使いたがります。

私たちの体内には電磁場もあれば重力場もありますが、その上に、より生命に直結した物理量も存在して、全体として一つの生命場を形成していることは十分に予想されることです。
その生命場のエネルギーが「生命」。なんらかの理由で、そのエネルギーが低下したとき、これを回復すべく本来的に生命場の備わった能力が「自然治癒力」。そして、生命と自然治癒力が統合されたものが「生命力」とこれまで考えてきました。
つまり、自然治癒力とは「場」があれば必ずそこに存在するのです。人間の独占物ではありません。これで、自然治癒力の在り処はわかりました。あとはその本体です。


ここまでは、ああそうですかですむ話ですが、問題はこの次です。

場があればそこには必ず自然治癒力が在るとして、生命力の一番高い場はどこか? それは「浄土」ではないかと突然閃いたのです。浄土は何処に? 浄土を探せば自然治癒力が見えてくるのではないかとばかり浄土を探しました。
そして行き着いた処。それは畏友本多弘之さん(親鸞佛教センター所長)の浄土でした。浄土とは「本願」の場である、と本多さんはいいます。そうか、浄土とは一切の衆生を救おうとする阿弥陀さまの願いの満ちみちている場だったのです。そして、阿弥陀さまは決して依怙贔屓をしないでしょうから、今ここが浄土だったのです。
そして、何よりも自然治癒力とは阿弥陀さまの本願のことだったとすると、これは科学で明らかにできるものではなく、当分は信じていくしかないものだとわかりました。

こんなところで本多弘之氏の名前を目にするとは。

本願の場に身をまかせながら、内なるかなしみで慈しみ育てていくことが自然治癒力を喚起していくことだとすると、これはまさに他力と自力の統合ではないでしょうか。そうです。自然治癒力とは他力と自力の統合のなかで育まれていくものなのでしょう。
さらに、他力と自力の統合を考えるとき、心のときめきを感じるのは私だけでしょうか。心のときめきは必ず内なる生命場の小爆発を惹き起こします。攻めの養生を果たしていく上での大いなる推進力です。がん治療の現場での長い経験のなかで、心のときめきこそ医療と養生の要諦であると思うようになってきました。


私には妄言としか思えません。
こんな親鸞理解をする帯津良一氏を親鸞仏教センターの講師などに招くことは、帯津良一氏の考えに東本願寺がお墨付きを与えることになります。
本多弘之氏は帯津良一氏の本願理解、浄土理解をどのように説明するのか、ぜひお聞きしたいものです。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« たばこ総合研究センター編『... | トップ | 2018年キネマ旬報ベスト... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

」カテゴリの最新記事