三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

五位

2010年07月04日 | 仏教

芥川龍之介に『芋粥』という小説がある。
主人公は摂政藤原基経に仕える侍の「某と云ふ五位」で、名前はない。
「五位は、風采の甚(はなはだ)揚らない男であつた」
「余程以前から、同じやうな色の褪めた水干に、同じやうな萎々した烏帽子をかけて」
「侍所にゐる連中は、五位に対して、殆ど蠅程の注意も払はない」

とあるように、まことに冴えない、同僚や下役にからかわれ、さらには物売りや子供にまで馬鹿にされている男である。
金もないらしくて、「彼には着物らしい着物が一つもない。青鈍の水干と、同じ色の指貫とが一つづつあるのが、今ではそれが上白んで、藍とも紺とも、つかないやうな色に、なつてゐる。水干はそれでも、肩が少し落ちて、丸組の緒や菊綴の色が怪しくなつてゐるだけだが、指貫になると、裾のあたりのいたみ方が一通りでない。その指貫の中から、下の袴もはかない」
この五位の夢は芋粥を飽きるほど飲んでみたいということだった、そして…、という話である。
だもんで、親鸞の生家日野家は五位の家柄ということを知った時、『芋粥』の五位を連想して、あの程度か、と思った。

親鸞の祖父は従五位下どまり、父有範の官職は皇太后権大進で従六位ぐらいだそうだ。
平松令三『親鸞』を読んでいたら、『枕草子』にこんなことを書いているとあった。
「みるにことなることなき物の文字にかきてことごとしき物 覆盆子(いちご)。鴨 頭草(つゆくさ)。水芡(みふぶき)。蜘蛛(くも)。胡桃(くるみ)。文章博士(もんじょうはかせ)。得業(とくごう)の生(しょう)。皇太后宮権大夫。楊梅(やまもも)」
清少納言が言う「見た目には平凡だが、漢字で書くと仰山なもの」の一つが「皇太后宮権大夫」である。
「有範がついていた大進はそれから二段階下の下級官吏にすぎない。大夫でさえ清少納言には馬鹿にされているのだから、大進など清少納言のようなポストにいる人から見たら、まったくはした役人でしかなかったのではないだろうか」というのが、平松令三師の意見である。

ところがウィキペディアによると、律令制下において五位はいわゆる貴族の位階とされ、国司や鎮守府将軍、諸大夫に相当する位である。
清少納言の父親である清原元輔は河内、肥後の国守を歴任して、72歳の時にやっと従五位下になっている。

上横手雅敬『日本史の快楽』に、慶滋保胤という、文名をうたわれ、天皇の詔勅の草案を作成したりした人物のことが書かれてある。
慶滋保胤の官位は従五位下にとどまった。
「豊かでもない保胤は、五十歳近くになって、かなり広い土地を求め、思うままに設計した。邸内に池を掘り、池の西にはお堂を建てて阿弥陀仏を安置し、東の書斎には書物を収め、北には妻子を住まわせた。地所に占める割合は、建物が十分の四、池が九分の三、セリの生えた田が七分の一、ほかに緑松の島、白砂の汀、紅色の鯉、白鷺とカラフルで、橋や船もあって、好きなものはすべて邸内に収めた」
豊かではないのに、現代では考えられないほどの豪邸なのである。
どうやら『芋粥』の五位というあだ名はその人物の位階とは関係ないらしい。

で思いだしたのが、親鸞が比叡山を下りたのは性の悩みからだという説があるが、某先生が性欲だけではなく権力欲もあったのではないかと話されたこと。
ところが、松尾剛次『山をおりた親鸞 都をすてた道元』には、
「親鸞はいちおう日野氏という貴族の出であり、二十年の間に堂僧から僧位・僧官を有する僧として出世した可能性も大いにあります。それゆえ、
去年(建久八年〈1197〉、25歳)夏のころ、範宴聖光院に拝任あり、(『親鸞聖人正明伝』)
とあるので、聖光院の院主となった可能性も捨てきれないのです」

とある。
五位の家柄では天台座主になることは無理としても、そこそこの地位は望めるはずだ。
親鸞が比叡山を下りたときは29歳、出世をあきらめるのは早い。
となると、権力欲はさほど大きな要因ではない気がする。

で、性欲のほうだが、親鸞は9歳で慈円の房に入室した。
松尾剛次氏は、「慈円に仕える童子の一人となったはずです」と言う。
童子はどういうことをしていたかというと、「夜には添い寝をして、師匠の男色相手となっていたようです」ということなんですね。
醍醐寺が所蔵する『稚児草子』という絵巻物には、「男性性器が露骨に表現されているばかりか、僧侶と稚児との性交の様子が赤裸々に表現されており、見る者は、そのリアルさに圧倒されます」とあり、ネットで調べると、その絵はほんとリアルです。
第一話は「師僧に仕える稚児の美談です。師僧は老人で、勃起力が弱まっているために、稚児は昼間から、自分に仕える男に命じて、張形や薬などを使って肛門を広げさせたり柔らかくさせて、夜の性交の準備をするという話です」
それとか、「稚児に横恋慕した若い僧が、留守をねらって塗籠(壁で周囲を囲った室で、寝室や納戸に使われた)に隠れ、入って来た稚児を後ろから犯しました。ところが、稚児は、動揺することなく、それに応じたという美談」もあって、この絵もネットで見ることができる。
比叡山でも同じような状況だったとすると、親鸞の性欲の悩みとは、セックスしたいということよりも、男色がいやだという悩みなのかもしれないなと思ったようなことでした。

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