三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

大倉幸宏『「昔はよかった」と言うけれど』(2)

2020年12月20日 | 

大倉幸宏『「昔はよかった」と言うけれど』によると、戦前は商道徳が守られていたわけではないようです。
さまざまな不正が行われていました。

酒や牛乳に水で薄めて売る。
積み荷の抜き取りが横行した。
商品の重さや量をごまかす。
粗悪品が雑じる。
見本と現品が違っている、など。

米国へ向けた我国シャツの送荷が、先方で開封するとボタンが全部糊付けであったとか、送ったマッチにはマッチが入っていないで箱ばかりであった。(新愛知1921年1月3日)


医療の面でも信じられないことがたくさんあります。
患者を麻酔で眠らせて暴行する。
いい加減な診断を下し、薬を与え、注射をし、手術をする。

妊娠の初期において、胎児が死んでいると称して流産させ、その流産手術代、入院料等をとるのであるという。(東京朝日新聞1933年4月20日)


こんなヤブ医者もいました。

かねてから「人殺し医者」という風評があった(略)。同医師にかかった患者を片ッ端から調査してみると、去る昭和8年1月開業以来同人の手にかかった千百四人の患者中実に八十七名という死因不審の患者が現われた。そこで更に五十嵐警察署がこの死因不明の八十七人について調べてみると、死ぬのも道理、これが殆んどモヒ(モルヒネ)注射一天張りの治療を受けており。(読売新聞1935年12月10日)


医師免許を持ってない人を雇う診療所がありました。

立派な医師を雇う場合には普通百円から百五十円位はどうしてもださねばならぬ。これが代診が出来るとか称されるだけで免許を持っていない、いわゆるインチキ医師なら最高八十円位で雇いいれる事が出来るところから、営利を目的とする診療所で雇いいれるのである。しかもこれ等インチキ医師の紹介所までが本郷区内にあるというのであるから驚くべきである。(東京朝日新聞1933年8月15日)


教師による殺人、暴行、放火、横領、万引き、生徒に対する猥褻行為などの犯罪が報じられています。

小学校主席訓導松本信夫は、受持の尋常六年女性と十数名を裸体にし変態性欲行為があったことが発覚し、この程免職処分になった。(読売新聞1928年2月18日)

校長の職を得るために多額の金銭を視学に贈ることが習慣化していた。
親から金品を受け取って内申書を改竄する教師がいた。

児童虐待、ネグレクトもありました。
「継母が毎日弁当を詰め込むとき生きたミミズを御飯にいれているのです」と担任に訴える6年生の女児。

養育費を受け取って子供を譲り受け、その後に殺してしまうもらい子殺しが横行していました。

同人は他の婆々連二名と共謀し、始末に窮したる私生児を四、五十円の附け金にて貰い受け、三日も経たぬ間に絞殺または蒲団巻きにして殺害せる数十二、三名に達し、死体は夜陰に畑地または溝の中に深く埋めたる。(大阪毎日新聞1913年6月4日)

殺害した子供の数は二百人以上、明治31年から16年間にわたって犯行を繰り返していだことが捜査で判明した。
東京のある集落では住民多数が共謀して子供をもらい受け、多くの子供は放置されて亡くなっている。

児童労働は当たり前でした。
丁稚奉公、飲食店の給仕、サーカスの曲芸、そして障害児を見世物にすることまで行われていた。

幕末から明治にかけて日本に滞在した外国人の著作を読むと、日本の子供は甘やかされており、親が叱ることがないと書かれてあります。
実際は例外がかなりあったようです。

大倉幸宏さんはなぜ児童虐待があったのか、このように指摘しています。

昔の日本社会は近所付き合いが濃密で、近隣住民が互いの家の内情をよく知っていたと言われます。しかし、戦前の児童虐待事件のなかには、発覚するまでに長い時間を要しているケースが多々ありました。親しい近所付き合いがあれば虐待を防げる可能性は高いわけですが、実際はそうではない事例が多かったのです。虐待が行われていることに気付かなかった、知っていたが通報するのをためらった、しつけと認識していた、単に見て見ぬふりをしていたなど、近隣住民側の事情はさまざまですが、人間関係の希薄さが見えてきます。かつての地域社会に対する今日のイメージは、単に美化されているだけの部分が少なくないのかもしれません。
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