三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

スピリチュアルに健康

2005年07月31日 | 問題のある考え

WHOの健康の定義は「完全な肉体的、精神的及び社会的福祉の状態であり、単に疾病または病弱の存在しないことではない」である。
  肉体的に健康
  精神的に健康
  社会的に健康
ということであるが、それに「spiritualに健康」を加える提案がなされた。
「完全な肉体的、精神的、spiritual及び社会的福祉の状態」が健康ということである。
Health is a dynamic state of complete physical, mental, spiritual and social well-being

スピリチュアルは「霊性」などと訳されているが、意味のわかりにくい言葉である。
鈴木大拙は「霊性」を宗教心、求道心といった意味合いで使っている。
しかし、「スピリチュアリズム」とは「霊媒を介して霊と交信できるとする心霊主義」という意味もある。

「スピリチュアルに健康」とはどういうことか。
医療の現場では「スピリチュアル・ケア」や「スピリチュアルな痛み」が言われている。
医師の田畑正久先生は「人間として生まれた物語、生きる意味、生きる意義、生きる目的、死をどう考えていくのか」ということだと説明している。
でも、「スピリチュアル」とはそういうことだろうか。

キリスト教では、人間はボディ(肉体)、ソウル(魂、精神)、そしてスピリット(霊)からなると考えるそうだ。
そうしたキリスト教の人間観からすると、肉体的、精神的に健康なだけでは不十分だということはもっともな話である。

WHOはスピリチュアルを「人間として生きることに関連した経験的一側面であり、身体感覚的な現象を超越して得た体験を表す言葉」と定義しているそうだ。
「超越して得た体験」ということでいえば、ある神父さん(スペイン人)が、西洋的霊性と東洋的霊性の一致が私の目的だ、というようなことを言われた。
インドへも何度か行って瞑想をしたそうだ。
その神父さんはあまり日本語が上手ではないので、私の聞き間違えかもしれないが、瞑想が深まると無になって何もかもが消える、という主旨のことを言われた。

だけど、曹洞宗のある住職さんは「、無念無想なんてあり得ない」と話されていた。
坐禅は神秘体験とは無縁、瞑想は神秘体験が重要な要素、と言えるのではないかと思う。
ということで、スピリチュアルとは宗教心とか求道心、あるいは生きる意味とか生きる意義といったこととは違い、霊魂のような実体的なものではないかと思う。

(追記)
ウィキペディアの「スピリチュアル・ケア」の項に、飯田史彦氏のスピリチュアル・ケアの説明が紹介されていて、私としてはますますアヤシイと思ってしまいます。

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2 コメント

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久々にコメントさせていただきます。 (tenjin95)
2005-08-01 11:13:23
> 管理人様



最近、必要があって鈴木大拙の『日本的霊性』を読んでおりますが、大拙はこの「霊性」を心よりも精神よりも、更に超えた文字通り霊的な働きだとしておりますが、なんだか良く分かりません。むしろ、宗教を形成しようとする意識全般を意味するのかもしれません。



さて、曹洞宗の方が言った坐禅ですが、確かに無念無想になることはないと思います。それは、坐禅に入るときに、最初の思い込みで「無になろう」とする気持ちが強いとそうなることが、自分の坐禅で確認できております。



その意味では、拙僧などが行う坐禅は、自然に坐禅に入りますので、無になるのは自らからの意識的な働きかけであって、意識活動そのものではないと思われます。



それはさておき、霊性という考え方そのものは非常に貴重で、信仰される対象はそれぞれの宗教に多くのものがありまして、共通事項を取り出すことも難しいですが、信仰対象に向かうわれわれ自身の心というか、これを霊的な働きだとするならば、人類共通の指針として宗教観対話も可能であろうかと思うのです。



長いコメント失礼いたしました。
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鈴木大拙とスピリチュアル ()
2005-08-01 16:50:03
禅について素人が生意気なことを書きまして、不快に感じられたでしょうが、ご容赦ください。



私も「日本的霊性」を読み、よくわかりませんでした。

私の場合は、たんに読解力がないだけのことですが。(^_^;)



鈴木大拙はスウェーデンボルグの著作を翻訳し、1910年には国際スウェーデンボルグ学会に出席していますから、スピリット(霊性)を実体的に考えていたのではないかと思います。



スピリッツ、あるいはスピリチュアルに健康ということがどういう意味なのか、その定義は人によってさまざまだろうと思います。

スピリチュアルな痛み、たとえば死を目の前にした人が、「どうして自分は死ななければいけないのか」「こんなに苦しく、もうじき死ぬのに、どうして生きなければいけないのか」といった苦しみ、これにどう答えていくかという問題は、大切なものを示しています。

そのあたりにスピリッツ(霊性)を理解するカギがあるように思います。
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