某氏にいただいた「なごやにしべついん」に、葛野洋明「救いのよろこび 真髄を聞く 4」があります。
そこでは、『拝読 浄土真宗のみ教え』にある「浄土真宗の救いのよろこび」の
この世の縁の 尽きるとき
如来の浄土に 生まれては
さとりの智慧を いただいて
あらゆるいのちを 救います
如来の浄土に 生まれては
さとりの智慧を いただいて
あらゆるいのちを 救います
という一段が解説されています。
この迷いの世界では悟りを開くことができない私なので、このたびのいのちを終え、浄土に往き生まれ、そこで初めて、悟りを開くということです。
「往生即成仏」とありますから、「いのちを終える臨終」とは、信心をいただいた今ではなく、肉体の死のことだと思います。
死後の世界としての浄土に往生する、ということです。
本願寺派の人の多くは往生は死んでからと受けとめているようですし、小谷信千代『真宗の往生論 親鸞は「現世往生」を説いたか』は親鸞は未来往生を説いていたと主張していて、たぶんそうなんだろうなとは思います。
『歎異抄』に「自見之覚悟」、自分勝手な解釈で他力の教えを乱してはならないとあります。
曽我量深たち近代教学の先生たちの説く「現世往生」は「自見之覚悟」ということになるのかもしれません。
しかし、還相廻向の説明には疑問を感じました。
往生して成仏した者は、今度は菩薩の相に還来して、あらゆる者を阿弥陀如来の救いへと誘う「還相摂化」の大活躍をするのです。
死んだ人が還相して衆生を救うというわけです。
しかしながら、
「安楽浄土にいたるひと
五濁悪世にかえりては
釈迦牟尼仏のごとくにて
利益衆生はきわもなし」
と和讃にあります。
死んでから浄土往生した人がこの世に還ってきて、そうして衆生を済度していたら、今ごろは世界中が念仏者だらけになるはずです。
ところが現実は、お寺によく参っていた人が亡くなり、その人の子供が聴聞するかというと、そうじゃない場合も少なからずあるわけで、死者による還相回向の効果はあまりないようです。
これは一例ですが、死んでから往生し、そうしてこの世に還ってくるという考えだと、いろんな矛盾が出てきます。
信心をいただいた今、往生するんだ、往生とは生き方だという「自見之覚悟」でいいのではないかと、私は考えています。
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