入江杏さんは『わたしからはじまる』で、被害者遺族像はこうあるべきというイメージについて書いています。
弟を殺された原田正治さんも同じことを話しています。
加害者に怒りをぶつけて死刑を求める被害者遺族というイメージもステレオタイプの一つです。
だから、死刑に反対する原田さんは叩かれたのです。
いろんな活動をしている入江杏さんも悪い被害者なのかもしれません。
いろんな被害者がいていいということです。
入江杏さんは講演でこんな経験をしています。
そうしたがんばった話、いい話によって苦しめられる人もいることに気づいたのが、自死遺族の言葉です。
自己責任という本当に不快な言葉が、社会に蔓延しています。それでも、事件・事故・天災、まだ私が巻き込まれた犯罪被害のように、本人の意思や選択が介在しないと思われる不幸は、まだしも共感されやすいけれど、自死・自殺のように、本人が勝手に選択したと思われる不幸は共感されにくい。自己責任で勝手に死んだのでしょうと言われるわけです。
共感してもらうだけの話を続けていいのか、疑問がわきました。
グリーフケアを学ぶようになって考え方が少しずつ変わっていったと、入江杏さんは言います。
入江杏さんと20歳の娘さんを殺された中谷加代子さんとのやりとりです。
中谷「歩の事件を経験して、紙一枚くらいは変われたかもね。でも、まだまだ煩悩の中で五里霧中なんよ。じゃけど、そういう私だから加害者の心が想像できるのかもしれんねぇ」
入江「そういう思いに至ったのは、歩ちゃんの事件の加害者が同級生で、まだ若かったということが大きいのかしら」
中谷「加害者が同じ世代の似たような家族で、加害者側のことは、わりと想像しやすかったんよ。加害者が自殺しちゃって、この世にもういないことも影響してると思うよ。
もし、彼が生きてて、良心の呵責もなくて、開き直ってたら……まあ実際、事件直後の私の心には、真っ黒な感情があったもの。許せない気持ちを持つ被害者のことは、誰より理解できるんよ」
被害者は加害者を赦すべきだということではありません。
イ・チャンドン『シークレット・サンシャイン』は6歳の息子を殺された母親が主人公です。
事故死した夫の故郷に引っ越してしばらくして、塾の教師に息子が殺されます。
母親はキリスト教の教会に通うようになり、加害者を赦そうと思いました。
刑務所で加害者と面会して「あなたを赦します」と言うと、穏やかな顔をした加害者が「知っています。私は神に赦されました」と答えるのです。
母親は怒り狂い、教会に行くのをやめます。
もし加害者が涙を流して謝罪すれば、うれしく思ったでしょうし、「お前に赦してもらう必要はない」と毒づかれても、怒ることはなかったと思います。
加害者は信仰によって救われたわけですから、本当なら母親も一緒に喜ぶべきなのでしょう。
しかし、それができない。
赦しとはそんな簡単なものじゃありません。
それでも、恨みや怒りを手放すことは必要だと思います。
人権の翼は、入江杏さんと中谷加代子さん、小森美登里さん(いじめにより娘さんが死亡)の3人が立ち上げたグループです。
犯罪被害者の経験を伝え、犯罪の減少、再犯率の低下を願っています。